タイトルはラウル・デュフィの言葉から。
考えたことをこうやって書いて公開していると、予想もしない批判を浴びることがあります。変なふうに目立つことで揚げ足を取られたり、悪意を持って言動を評価されたりもします。
批判や批評を受ける過程において、「ああ、なるほどな」と思うこともあれば、言ってもいないことを攻撃されたり、知りもしない相手から人格否定されたりして、戸惑うこともあります。
そういう攻撃から身を守る一番の近道は、そういった悪意のるつぼに近付かない、目にしない、ということなのかもしれませんが、その中に、もし1つでも、わたしが本当に必要とする意見や批判があったら。わたしはそれを見逃していいんだろうか、本来は気付かなければいけない自分の傲慢さや未熟さを、見落としてしまうんじゃないだろうか、という不安もあります。
常に、その2つの感情の間でゆらゆらと揺れているんですが、その理由はタイトルのように、わたしの心さえ強ければ、罵詈雑言の中から必要なものをちゃんと拾い上げられるんじゃないだろうか、それでダメージを受けるのは、わたしが弱いせいなんじゃないだろうか、と、思っていたからなんですね。
とはいえ、けっこうダメージの蓄積が激しく、この言葉を見て、最近では「距離を置く」ほうに寄せてみています。
ネットの匿名掲示板等を作家は見ない方がいいとツィートしたら、批判も受けとめての創作ではないかと反論が来たのだが、僕はそう思わない。元来、表現者は感受性が豊かだし、その匿名性を利用し、それを発言する事で何も失う物が無い者達の礼儀無視の罵詈雑言に心乱れない者など何処にもいない。
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2012, 9月 20
中には有益な意見もあるが、それを見付ける為に、悪意の深淵を覗き込む事はない。作家は、批評を受け入れる事も重要だが、それは、批評する人間としてスジを通したものだけで充分である。「誰に向かって作品を書くのか」創作者はそこだけは絶対にブレてはいけない。(小池一夫)
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2012, 9月 20
受け入れるなら、相手が正当と思える方法でぶつけてきた批判のみ。
見えない場所から投げつけられる石に怯えて、やりたいことを制限したり我慢する必要はないし、のびのびと好きなことをするためなら、ある程度の防御手段を身に付けていくのも、必要なサバイバル術なのかもしれないなー、と思いました。
まだ、答えは出ていないんですけどね。
ということで、先日わたしがサイボウズ式で書いたコラムに、逆視点からのエントリを書いてもらえて、それがとても嬉しかったよー、というご報告です。
※しのさんのエントリを批判と受け止めたわけではないです。あしからず。
今日はそんな感じです。
チャオ!
☆このへん関連しそう