インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

本の読み方について、やってみた感想などあれこれ

読書、お好きですか。わたしは好きです。

本には著者や編集さんのいろんなエッセンスがギュッと詰まっており、一冊を読み通すことで圧縮した知見が得られるところがいいなあ〜と思っており、育児の合間にKindleなどを活用して読書を楽しんでいます。

blog.tinect.jp

この記事でしんざきさんが書かれている「何かを出力することを意識して読む」というのはとても良くて、共感しました。誰かに感想をお伝えする前提で読むと、読みながら脳内が整理されるのでとても有効、という実感があります。

読書は何かの追体験としてもいいし、何かを学びたいと思ったときの思考のモノサシとしても大変役に立つと思っています。なので誰かに何かを学びたいのですが……と相談されたときには、まず入門編の書籍を薦めることが多いのですが、読み方についてはあまり考えたことがなかったなあと思ったので、今までやってみた工夫などをまとめてみようと思います。

読みながら「!」と思ったことをメモする

これはKindleで読書をするようになってめちゃくちゃ活用しているのですが、読みながら「このフレーズいいな、面白いな」と思ったことをハイライトする、というやり方。紙の本だと付箋をつけたりしている人も多いと思いますが、Kindleだと検索できたりするのでさらに便利です。

さらにそれをツイッターに放流したりすると共感したり「僕も読みました〜」とリアクションがあったりして楽しかったり。

同じ本を読んだ人と読書感想会をしてみる

実は読書会のいいところは、会を設定することで期限ができて「なんとなく読み逃す」がなくなるところかもしれません。

ともあれ、誰かと「面白かったところを共有する」ことで学びが深まったり、意外な発見があるのでとても好きです。

それでも「読む時間がないよ〜」となってしまう場合は、アクティブ・ブック・ダイアローグという、一冊をみんなで分担して読み(オフラインで集まってやるときは、1冊を破って分け合うんだとか!)、ログを残しながら感想を語り合うやり方もあるので、そういうのを試してみてもいいかなと思っています。

感想をもとにブログを書いてみる

これはまさにしんざきさんの記事にもあったのですが、

幾つか自分の「キーワード」を決めておいて、そこをトリガーにして自分の土俵に引っ張りこむというやり方が出力しやすい

いろいろと得をする、「何かを出力する」ための本の読み方について。 | Books&Apps

というのがいいと思います。

その本を読むときに自分がなにを得たいのか、どんなキーワードを目にしたとき発想が広がるのかに注意を向けて、「!」があったらそこから我田引水、自分のフィールドで話題を展開していく、というのもひとつのやり方かも。

極論、本の言いたいことには共感できなかったけど、本を通じて自分の考えや思っていたことがまとまったりしたとしたら、それは学びになると思っているタイプなので、本をきっかけに自分の世界が豊かになるならそれでよし、だと思っています。

なので「出力」のひとつの方法としてブログに感想を書いてみるのはいいのでは〜と思いますし、こんなふうにメモ程度でも残しておくと、あとあと自分のためにもなったりするので、気負わず書いてみるのはいいかもしれないですね。

hase0831.hatenablog.jp

 

今日はそんな感じです。

チャオ!

生存バイアスから自由になる

転職して1年が経ちました。えっ……まだ1年……?もう3年くらい働いている気がするんだが……?という感じではいますが、それでもまだ1年。山あり谷ありで、やれたこと・まだやれていないことを机に並べて、ウンウン考え続ける日々でございます。

そんな感じで日々楽しく働いているのですが、気づけば40代も後半。子どもはまだ4歳ですが、毎日可愛さを増しており、こうやって「ママー!」と繰り返し呼んでくっついて来てくれるのは、あと何年なんだろう……としみじみしながら、自分の仕事と生活、個人のバランスを取るためにどうしたらいいか、について思いを馳せています。

何度か書いていますが、わたしは仕事に本気で取り組み始めたのが20代後半で、キャリアのスタートが遅かったため、その遅れを取り戻すために、かなりハードワークする方法を選択しました。定時=終電くらいの認識で働いてみたり、残業時間がちょっと公には書けないくらいの時間数になってしまったりしたこともありました。

で、結果、いまなんとか家族を養えるくらいの収入と仕事を得られているわけなのですが、その先入観?成功体験?から早く自由になりてえなあ、と思ったので、今日はそのことを書きますね。

ハードワークで得られたものは何か?

最近読んだこのブログにあった表現が良かったので引用するのですが、

成長の定義を「今できないことをできるようになること」と考えるとしっくりいく

www.blockchainengineer.tokyo

これはそうだなと思っており、ハードワークを通じて、成長=今できないことをできるようになる、という体験は得られたように思います。

それをわたしは「時間の圧縮」と感じているのですが、まあそれはそうで、普通は8時間しか働かないところを、同じ濃度で16時間働けば、そのぶん経験値は積み上がるわけですね。

でも実際「同じ濃度で」働けるわけではなく、連続労働は8時間どころか6時間を超えたくらいからパフォーマンスは落ちる一方のような気がします。なぜなら人間は工業製品ではなく、疲れてパフォーマンスが落ちるからですね。

ここを乗り越えて働ける人というのもいるのかもしれませんが、わたしには無理でしたし、大多数の人がそうなんじゃないかしら。

逆にハードワークで失ったものは何か?

ハードワークで失ったものはものすごく明確で、それは「健康」です。

精神の健康と、身体の健康、両方を損ねたなあと感じています。当時はまだ若いし、体力もあるし、なんか興奮してアドレナリンが出ているから、頭では「疲れてない!まだ働ける!」と思っているのですが、疲労や無理は蓄積し、あとあと爆発する時限爆弾みたいなもの。

加齢と共に「あのときの無理がたたったなあ」と感じることは増えており、わたしにとってそれは不眠であったり、婦人科系疾患であったり、まあ具体的にいろいろガタが来ているんですね。

「身体が資本」とよく言いますが、本当に身体の健康はすべての資本です。その資本を損ねているということは、手元の資源が減っているということ。そうなると、選び得た未来の選択肢を諦めなければいけないというネガティブなルートに入ってしまう。

これについては「後悔先に立たず」という感じで、ハードワークで失ったものの大きさを、ただ嘆くのみです。

「ハードワーク=成長」ではない、を言っていく

そうして振り返ってみると、「ハードワーク」と「成長」は必ずしも関連があるわけではないし、ハードワークで失ったものって、後から取り返せないんですよね。

そして「健康」という資本は、これから死ぬまで付き合っていかなければいけないものなので、目減りした原資をこれ以上減らさないように、あれこれ工夫しなければいけない。そうなると、身体に気を使って健康を維持するためのコストが普通の人より余計にかかるわけで、ああ〜〜〜なんかもうバカだったなあ〜〜〜と反省しきりです。

それでも、割と最近までは「そうやって得たスキルで、なんとか食いっぱぐれしてないんだから、いいじゃないか」と過去の自分を肯定しようとしてきたんですが、なんかもう、それもいいかな、と感じてきました。

ちぎれそうなくらい無理をしていた過去の自分を、自分くらいは肯定してあげないと、過去の自分が報われない。そんなふうに思っていたのですが、間違ってたなと思うことはちゃんと間違っていたと認めるのも、未来の自分のためには大切なんだろうと思い直すようにりました。間違っていたことを認めたとしても、過去の自分を否定することにはならない、というのが、自分の中で腹落ちしたのかもしれません。

そして、必ずしも労働を通じて成長をしなければいけない、ということもない、と実感できたのも大きかったと思います。自分のコンプレックスを受け入れて、周りに評価されたり認められたりすることで帳尻を合わせようとしいなくてもいいんだ、と思えるようになったのは、夫や子ども、友人たちのおかげです。わたしはわたしのままでいい。そのままですでに素晴らしいんだ、というのを、言葉だけではなく態度で示してくれる人たちに恵まれたことで、コンプレックスと和解できたような気がします。

なので人生をもう一度やり直せるとしたら、ハードワークをしないで時間を圧縮し、成長して遅れたキャリアを取り戻すルートに入れるよう考えるか、もしくは誰かを養ったりすることを選ばず、自分自身でひとり生きていける程度の稼ぎがあればいい、というバランスを選ぶかもしれません。

いずれにせよ、「ハードワーク=成長」という生存バイアスから抜け出して、それ以外の方法も、絶対にある!という確信をもってなんとかしていきたいと思っています。

当時のわたしにはそれしか手段がなかったし、相談できる人もいなかったから、間違えたことはしょうがない。しょうがないんだけれども、わたしが今後関わる人たち、とくにこれからキャリアを積んでいく若い人たちには「ハードワーク=成長」の思い込みから自由になれるよう、あの手この手でサポートしていけるといいなあと思っているので、その所信表明をもって転職1年目のエントリーと変えさせていただきます。

今日はそんな感じです。

チャオ!

「オバサン」を受け入れるのには胆力がいる

今日、45歳になった。

……と書いたところで、めちゃくちゃビビった。自分がその年齢になったことを、まだ受け入れられていないのかもしれない。かといって「気分はまだ30代!」という感じでもないし、「もうオバサンよ〜」というノリでもない。

なんというか、「わたし」が「わたし」のまま年齢を重ねたら、こうなっちゃった、という感じがするのだ。

変わったこと、変わらないこと

20代の頃と変わらず変な音楽が好きだし、インターネットが大好きだ。今年になってからは、お笑いライブにハマってあれこれ首を突っ込んだりしている。確かに音楽ライブより、お笑いライブは「座って観られる」というメリットがあり、そこに楽さを見出している時点で加齢を実感するけれど、好きな芸人を見つけ、近況を追い、チケットをちまちま探して劇場へ足を運ぶ、というのを子育ての合間にできているのは、なんとなく自分が思っていた40代の行動ではないよなあと思う。端的にいうと「思ったより元気で軽率」な感じがするのだ。

とはいえ加齢を実感、いや痛感することも増えた。子宮内膜症子宮筋腫といった持病もあるし、頭痛やめまい、吐き気に悩まされる日が続いている(これは現在治療中)。

月経もある月とない月があり、こうして「産む」ことから解放され、閉経へ向かっていくんだな〜と人体の不思議に感動することもあるが、基本的にはそんなに楽しいものではない。白髪も増えたし、顔のたるみやシワも「ここにいるぞ!」という感じで存在感を増してきた。ビデオ会議はウェブカメラのフィルター効果でなんとかやり過ごしているが、明るいところで自分の顔を見ると「ギャーッ!」となるくらいシミ・ソバカスだらけだったりもする。とはいえ白髪については、まだもう少しヘアカラーを楽しんだあとにグレイヘア(染髪せず白髪をそのまま活かす髪型)へ移行しようと思っているので、むしろ少し楽しみではある。

亡くなった祖母がとても美しいグレイヘアだったのだが、柔らかく後ろになでつけた短い髪がふだん着の着物と割烹着によく似合っていた。なので「おばあちゃん」になることへの忌避感はないのだが、その前に「おばさん」を経由することへの心の準備が、まだできていない。

なんというか、単なる今までのイメージの問題なのだと思う。

わたしの世代で「おばさん」というと、漫画やバラエティで面白おかしく取り上げられる「あつかましい中年女性」を「オバタリアン」と呼んでいたイメージが強く、「ああはなりたくないもの」とされていた気がする。

まあ否応なしになっていくのが「おばさん」なのかもしれないけれど。

「おばさん」の期間って、意外に長い!

以前、こんなことをツイートした。

そう、人生が80年、順調にあるのだとしたら、驚くことにまだ今は折り返し地点で、なんとおばさんになってからの人生のほうが、ずっと長いのだ!

このまま「おばさん」経由で「おばあちゃん」へ突き進むとしても、あの嵐のような10〜30代と同じだけの月日をまた歩んでいくのかと思うと、少し気が遠くなる。ならばポジティブに「おばさん」をやるのも、それはそれでありなのかもしれない。

それに、自分が「中年女性」という属性を得たことによる良さ、みたいなものも感じることがある。まず、貫禄がついたことで、頼られることが増えた。頼られるというか、信頼感を得やすくなった。これはただ「若い」というだけで舐められがちだった20代にくらべると、大きな違いである。それからちょっとしたことでは動じなくなったし、まあ、なんとかなるでしょう、と構えていられるのは、経験と年齢を重ねたおかげだと思う。

また周りからも「中年女性」として見られることで、ちょっとした小言なんかも「生意気」な感じなく、伝えやすくなったように思う。(そのぶん「圧」が出るので言葉尻にはじゅうぶん注意する必要はあるが、言葉が届きやすくなった、という意味で)

例えば困ってる人を見かけたら「大丈夫?」と声をかける、とか「やめてあげなさいよ」と軽く伝える、とかは、若い女性の頃にはなかなかやりにくかった。警戒されにくくなった、というのかもしれない。おばさんは街中に偏在するので、わたしもその中に埋没し、モブとして優しい言葉をかけたりいたわったり、無名の市民としてやりやすくなったように感じる。

街のおばさんとして埋没しながらも、自由に生きる「イケてるおばさん」になる道だってある。わたしだって、なれるものなら『マッドマックス 怒りのデスロード』でバイクを乗り回し銃をぶっ放す「鉄馬の女」のように、自由で勝ち気でイケイケなババアになりたい。また、思いつく範囲でも、翻訳業をしながら飄々と猫と暮らしお酒を豪快に飲む素敵な「おばさん」がいたり、先立った夫が遺したレコードを聴きながらワインをたしなみ、気まぐれに若い子の人生相談に乗ってやる「おばさん」もいる。

なんというか、わたしが子どもの頃に見えていた「おばさん」はなんて限定的なものだったのだろう、と感じることが増えた。バリキャリでなくても、結婚していなくても、豊かで美しい暮らしを営む素敵な中年女性はたくさんいる。ただ、わたしが幼かったせいで、見えていなかっただけなのだ。

そういう「素敵なおばさん」像が見えてきたのは僥倖であり、わたしみたいに小心者で周りの目を気にしてビクビク生きてるタイプからすると、これはもう大きな進歩なのである。

 

このあたりの「素敵なおばさん」像の補強は、ジェーン・スーさんの活動や岡田育さんのこちらの著書を読んだ影響もあるかもしれないので、「おばさん」というワードに無駄に怯えている人には、ぜひ一読を薦めたい。

いろいろやっていくぞ!

とはいえ、まだまだ「お若いですよ!」が褒め言葉として使われる世の中で、「おばさんです」と自称するのは勇気がいる。

自虐として長く使われてきた言葉だし、自虐的な中年は本当に痛々しい。慰めを求める下心が見え隠れするからだと思うのだが、それでも勇気を持って「おばさん」を楽しんでいこうと思う。

そしてその勇気は、自分の中の偏見や思い込みをぶっ壊すために使っていこうと思うのだ。それは、「おばさん」「お姉さん」みたいな呼称に振り回されない「自分」が仕上がってきたからこそだと思う。自分の土台がしっかりしてきたからこそ見えてきた、「ここは要らないな!」と思う自分の壁を、自力でぶっ壊すことができるようになったからだ。

 

これまでの自分で作ってきたものを、これからの自分が壊していくタイミングが中年で、その胆力を持てるのが「おばさん」なのだとしたら、なかなか悪くない。白髪もシワも、たるみも中年太りも、みーんなひっくるめて「今までのわたし」の結果なのだから、まあ仲良くやっていこうや、と思っている。

 

45歳、思ったより若造だが、思ったよりいろんなことを見聞きしてきた自負もある。

そういう中間期だからこそ、今までできなかったこと、今だからできること、死ぬまでにしたいこと、いろんな「やりたい」を手放さずに、おいしいところどりをして、しぶとく生きていってやろう。そう思う45歳の誕生日なのでした。

 

今日はそんな感じです!

チャオ!

「最初に腹をくくれるかどうか」で9割決まるー「プロジェクトのトラブル解決大全」

気になってKindleで買いっぱなしになっていたけど、読み始めたら一気に読んでしまった。

炎上プロジェクト、燃えてるところに放り込まれることもあればうっかり燃えてるのに気付かなかったこともあり、ものすごく参考になった。

とくに腹をくくれるかどうかで成否は9割決まる、という箇所は本当にそう!と膝を打ちたくなるほどで、2022年下期のテーマにしようと思う。

それ以外にも、単なる根性論でやりきれと言うわけではなく、とても納得感のあるバランスで具体的なノウハウが書かれているので、鎮火部隊としてアサインされることがある人、ない人でも学べるところが多そう。

適度にメンバーのガス抜きをしたり、リーダーであっても「逃げると決めたら逃げろ」「黙ってやりすごせ」などメンタルダウンを避けるためのコツがあり、人間らしいところも随所にあり、すごく良かった。

個人的には

走るリーダーは人を不安にさせる

がグッときました。

おすすめ!

「会話」と「対話」を上手にミックスしたいなと思った話

8月です。

大変ごぶさたしています。お元気でお過ごしでしたか?

わたしは相変わらず、仕事と家庭のバランスを取るのに一生懸命ですが、楽しくやっています。8月は自分の誕生日があることもあって、なんとなく1年を振り返ることが多いです。2021年の夏は転職があり、2022年の頭から新しく自分のチームを立ち上げることになり、子どもはもう4歳になりました。早いものですね。

 

そんな中、寄稿した記事が公開されました。

kaigo.homes.co.jp

「夫婦間のコミュニケーションを円滑に運ぶためのヒントを…」とのことだったのですが、アドバイスできるほど我々も一緒に居る時間が長いわけでも、コミュニケーションのオーソリティでもないので、実体験に基づいた「くふう」をお伝えできればと思って書きました。

 

その中で、

コミュニケーションに「これ!」という正解はありません。

また、選んだ手段が必ずしもベストとは限りません。それでも、常によりよい解決策を探し続ける努力ができる相手だからこそ、パートナーとして長く、一緒にやっていけるのではないかと思います。

と書いたのですが、この点について、もうちょっと書いてみたいと思います。

 

「いいパートナー」ってなんだろう

この議題について、二度目の結婚をした今でもよくわからないのですが、自分の両親や、身近なカップル(同性・異性に限らず)、また仕事でのパートナーシップにおいて「うまくいっているなあ」と感じるのって、どんなときなのだろう?と考えています。

価値観が合うことだったり、ノリが近い、一緒に居て心地よい、みたいな、いろんな要素があると思うのですが、先程の記事を書いたときに気づいたのは、「お互いが相手と一緒にいることを諦めていない二人」という言い方がしっくりくるかもしれない、ということです。

「あなたとずっと一緒にいたい」という、その気持ちを確認することができれば、どうやれば一緒に心地よく過ごせるかを探るのが怖くなくなり、諦めずにコミュニケーションを続けることができるんじゃないかなあと感じたんですね。

 

たとえば、我が家の場合、もちろん意見の対立やケンカがありますし、ここは価値観が合わないんだな〜と感じることもあるのですが、それでもお互いが相手のことを好いていて、この先も一緒にいたいという気持ちに変わりはありません。

もちろん「ここはどれだけ話してもわかり合えないんだな」と思うときもあります。でもそれってけっしてネガティブな意味だけではなくて、「ああ、相手と自分にはこういう違いがあると理解できた」、ともとらえられるので、それすらも相手と一緒にいるための参考材料になるというか……。

 

気持ちの言語化は、最後まで気を抜かないで

そのためにも、常に相手が「自分は愛されている」と安心できるよう、自分の気持ちを伝えていきたいと思っていますし、ちょっと伝え方が難しいな、言葉にしにくいな、ということでも、諦めずに頑張って正確に言葉にしていこうと考えています。

 

「この問題についてのあなたの意見には同意できないけど、だからといって、あなたを好きな気持ちに何も変わりはない」と伝えるのって、つい後半を端折ってしまいがちなのですが、相手と違う意見を伝えるときこそ、しっかりと最後まで気を抜かずに、気持ちを伝えていかないとな、と思うのです。

 

最近、あるオーディション番組のドキュメンタリーを観ているのですが、オーディションなので、参加者は順位づけや勝敗という結果を突きつけられるときがあります。そこで、その主催者(審査側)は、「この結果の順位や、勝敗によって、あなたの素晴らしさが損なわれることはない」と伝え続けるんですよね。

 

当たり前のことかもしれないんですが、厳しい言葉を伝えるときに、とても大切なことなんじゃないかなと感じています。でも、最後までしっかり伝えるのって、すごく大変で、疲れることなんですよね。だからこそ、手を抜いてはいけないな、と思っています。

 

みたいなことを通して(これは最近、仕事でもとてもよく思うのですが)、コミュニケーションでごっちゃにしがちなものに「会話」と「対話」があるのかもしれないな、と感じています。テンポよくお互いの言いたいことを言ったり、意見を交換する「会話」と、言いにくいことでもじっくり熟考して言葉を選び、ふたりで一緒に同じ方向を見て行う「対話」

この2つは似ているけど異なるもので、これらを上手にミックスすることが夫婦のコミュニケーションを円滑に運ぶコツなのかもしれないなあ、と思いました。まだまだ難しいですね。

 

それ以外にも、わたしの両親がいっぺんに倒れたとき大活躍してくれた夫のエピソードなどもありますので、ぜひご一読くださいませ。

kaigo.homes.co.jp

8月も頑張ってやっていきましょう

「対話」で思い出したのですが、あつたゆかさんのこちらの書籍がとてもよかったので、あわせて紹介しますね。夫婦の「対話」について深く詳しく考え抜かれている良書だと思います。

タイトルに「共働き」とありますが、これはキャリアとライフのバランスを、相手とより丁寧に調整していく必要がある組み合わせだからというだけで、共働きでないパートナーシップでも十分参考になるノウハウがギュッと詰まった一冊になっているのではないかな。

 

こんなふうにいろんな人の知恵を参考にしながら、わたしもパートナーシップをよりよくしていく「くふう」を続けられたらいいなと思っています。

 

8月もなんとかやっていきましょう。

今日はそんな感じです。

チャオ!

「るんるんパスタ」が怖い

Twitterで流れて消えていったのが気になって、Amazonで買ったらめちゃくちゃうまかった「るんるんパスタ」が怖い。ショートパスタを油で揚げて味付けしたものが小袋になってるものなんだけど、わたしがジャンクフードに求めているものすべてがある。ガリガリの食感、塩、油、ケミカルな味がたまらん。なんかわからんけどうまい。でもなんか身体によくなさそうな感じがビンビンする。

わたしはこのお試しアソートを買ったけど、これがまた意味がわからんくらいうまい。まず塩味、めちゃくちゃうまい。次にコンポタ。まさにコンポタ粉をまぶした感じの変哲もない味がうまい。そしてわさび。思ったよりちゃんとわさびのピリッと感があってうまい。そしてまたシンプルな味を求めて塩味に戻ってしまう……という恐ろしさ。

 

会社は京都にあって珍味などのおつまみの卸のようなのだけど、マジで情報がそれくらいしかない。関西の人にはおなじみの味なのだろうか。

www.sanko-foods.com

手のひらに乗るくらいの小袋になっているので、1袋食べて「このへんにしとこ……」と思いながらもう1袋食べてしまうのも怖い。もう「るんるんパスタ食べたいからビール買うか」まであるくらい怖い。たぶんどんなお酒にも合う感じがします。

今日はそんな感じです。

チャオ!

自分の人生に飽きたくない

いろいろ読みました。というかこのへんの話題、観測するメンツが似てきているので、もっといろんな人の文章を読みたい。みんなどこで書いているの。

どうせ俺らは早く死ぬ - phaの日記

生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた - シロクマの屑籠

『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で) - 自意識高い系男子

いくつか読んだ感想をメモしておくと、わたしたち40代は、10代の頃に思っていたより長く生きたのだなあと思う。思春期をぎりぎりいっぱい延長できるほどもう若くはないし、喪ってしまったものも、たくさんある。

なにかに熱狂するエネルギーであったり、好き/嫌いに対する爆発的な感情みたいなものが年々なだらかになっていき、まさに「人生の秋」のような、しんみりした味わいが出てきたなあと感じる。

とはいえ、その喪失感にはまだ「みずみずしさ」があり、自由を持て余せるほどの健康くらいは、手元に残っている状態なのだろう。

 

わたし自身も離婚→再婚→妊娠・出産を経て、人生がSeason2に入ったなと感じていたこともあったし、確かになにかフェーズが変わった実感もある。人によっては、もっとこの変化が大きくて、子どもを持つことで「自分の人生の主役から降り、子どもが主役の人生の脇役になった」と意識が変わった人もいるだろう。

子どもを持っていなくても、仕事や人との関わりの中で、自分がメインステージに立つ時期は過ぎたな、と思うことがある、という話もよく聞く。最前線でバリバリ働く程の気力も体力もないし、むしろ後方支援として後進の育成に興味を持ったり、経験を活かす方に面白みを感じ始めたり、20代に混ざって夜の街で遊ぶのに、やや居心地の悪さを感じるときはないだろうか。正直、わたしはある。

 

以前、書いたように「人生がループしてきている」と思うことも多々ある。

悩みも苦しみも、だんだん似てきている。10〜20代の頃に感じていたことをまだ悩んでいるし、結局は人間関係とお金と健康のことでしか、足を止めて悩むことがないような気がしているのだ。

自分の書くものに飽きている - インターネットの備忘録

それでもわたしは自分の人生に飽きないために、なにかあるんじゃないか、ともがいている。子どもを産んだって自分の人生の主役はわたしだし、メインステージじゃなくたって、立派に歌い踊れるんじゃないか。自分の役目を果たせるんじゃないか。そんなふうに思って、その「役目」を探し続けているような気がするのだ。

 

そして幸運なことに、その「役目」を与えてくれる仕事(会社)に出会えたことも、これに気づくきっかけになった。今までの経験を総動員してぶつからないと乗り越えられない課題に立ち向かえるのは、つらくもあるが、幸福だ。わたしのようなタイプは、手なりの生き方でいると、どうしても同じ場所をぐるぐる回っているだけのような気になるからなのだろうと思う。

そういう意味では、仕事という環境が常に新しい知恵の輪を与えてくれて、新しい問題を解き続けていることで、わたしはまだ自分の人生に飽きずに済んでいるかもしれない。

そう、わたしはまだ自分の人生に飽きたくない。

もうこれから新しいことにワクワクしないかもしれないし、ドキドキしたり、体温や心拍数がパッと上がって高揚するようなことには遭遇しないかもしれない。そんなふうに思いながら生きるには、思ったより人生って長いんじゃないか?思うほど簡単に寿命って来ないんじゃないか?と思うようになった。

 

不思議なのだが、そう思うのと同時に「死ぬこと」をとても身近に感じるようになり、明日死んじゃうとしたら、あれもこれもまだやってなかったな、やっておきたいな、と思うことが増えた。

身近な人で亡くなるのは年上ばかりだったのが、同世代や、ともすると年下がいなくなってしまうのもぽつりぽつりと増えてきた。Facebookで元同僚の訃報を知ることも少なくない。ああ、あんなにパワフルだった人でも、急に死んじゃうことってあるんだな、と実感するようになったからなのだろう。

 

だったらもうヤケクソでいろいろやってみるのもありかもしれない、と思っている。phaさんが紹介していたクリトリック・リスはわたしもずっと好きで、何度もライブに足を運んでいるが、そのスギムさんは1969年生まれ、52歳だ。

52歳のおっさんが、パンツ一丁でピコピコ音に合わせて歌い、踊り、それが誰かを感動させている。わたしも感動した中のひとりだけれど、誰かがヤケクソでも何かに全身でぶつかっている様子はなんとも言えないおかしさとカッコよさがあり、中年でないと出ない味わいだろう。

 

その様を感動する側にいくか、感動させる側にいくのか、どちらになれるかは分からないけれど、その感情のふるえは現実にあって、もしかしたらわたしにもできることかもしれない。そんなかすかな希望をもって、まだもう少し生きてみようと思っているのです。

今日はそんな感じです。

チャオ!