前の記事で「わたしは友だちが少ない」という話を書いたのですが、そもそもなぜ「友だちが少ないとよくない」と思ってしまうのか、というところを書いてみたいと思います。
マジでなんとなくなんですが、子どもの頃からなにか良くないことをすると、親から「そんなんじゃお友だちができないよ」と叱られた覚えがあります。喧嘩すると「だからお前は友だちが少ないんだよ」と言われたこともあったり。そう思うと、わたしにとって「友だちが多い=良いこと」というのは、親からの刷り込みだったのかもしれません。
確かに、子どもの頃はみんなの中心にいて、話題の主役になっている子のほうが人気者、というイメージがありますよね。少なくとも、わたしは人気者ではなかったし、学級委員体質で、ふざける男子を帰りの会で糾弾したりしていました。それでも数人のお友だちはいた覚えがあるし、お誕生日会を開けば何人かは来てくれた記憶があるので、嫌なやつではなかったのでしょう。でも、それでもどことなく「わたしは友だちが少ない」という後ろめたさから自由になれることはありませんでした。
では、なぜ「友だちが多い=良いこと」だという価値観に逆らえなかったのでしょうか。
承認欲求と所属意識の充足
1つめは、承認欲求と所属意識からくるものなのだろうと思います。本質的に、大人になった今でも、わたしは承認欲求と所属意識から自由になれてはいないのですが、子どもの頃は余計にその意識が強くありました。◯◯ちゃんの友だちとして認められたい、といった子ども同士の関係だけでなく、大人から「いい子だね」と言われることが、ものすごく嬉しかった。我が家は両親ともに聾唖者で、母親は病気がちで入院していることが多く、「母親代わり」にいろんなことを担っていたのですが、そこで褒められるのが本当に嬉しかったんです。
言い換えると、ただ言われたことをやっているだけで、インスタントに「ここにいていいんだ」という実感を手に入れられたのだと思います。母親の病気は心因性のもので、その原因はお前にある、と親族から責められたことがトラウマになっているのかもしれません。子どもの頃は、「わたしのせいで家族が壊れたのだ」と自分を責めることが多かったのですが、そのぶん、欠けた穴を埋めるように、母親の役割を担えば周囲はとても褒めてくれました。自分であけた穴を、自分で埋めているだけなのに!と思いつつも、周囲の大人から存在を認めてもらえてるようで、気持ちが安定しました。
そして同時に、母親代わりに家事をしたり家族のケアをすることは、自分の役割はここにある、という所属意識も満たしてくれるものでした。今、自分が子育てをしている身として考えると、まったくありえない話です。子どもはただそこにいて、存在するだけで素晴らしく、何も担ったり責任を果たす必要がないからこそ子どもなのに!
話がそれましたが、まずこの承認欲求と所属意識の充足、というのは強烈にあったのだと思います。学校に置き換えると、◯◯ちゃんとわたしは親友だよね、と認め合うことであったり、わたしは◯◯ちゃんグループの一員(仲良し組)だよね、と思えることであったり、といったことでしょうか。
集団意識と「人脈」という幻想
そして2つめ、これは中学から社会人になって培われたものだと思うのですが、集団意識と、人脈=宝という刷り込みです。中学や高校に上がると、集団に属していることが具体的なメリットになることが増えました。
わたしはいわゆる「耳年増」というやつで、噂話や年上の人たちの話を聞くのが好きでした。周りが知らない情報を得てそれを伝えることに愉しさを感じていたのだと思います。そうなると、集団で行動することにメリットが発生してきます。時代的にも、いわゆる「コギャル世代」としてラベリングされ、そのラベルに沿って振る舞うと、ちやほやされたり、優遇されたり、良いことがたくさんありました。
その価値観のまま大人になると、今度は「友だちの多さ」が「人脈」として転用されるようになります。自分の生活圏内で増やせる友だちの数は頭打ちとなり、いわゆるクラブイベントや、異業種交流会的なものに出入りするようになっていきました。ポケベルからPHS、ガラケーへ移行し、電話帳のメモリが埋まっているほどスゴい、という評価軸が産まれ、それはそのまま名刺入れの厚さ=交換した名刺の数として評価されるようになります。
わたしは新卒で営業職に配属されたので、その傾向は加速していき、とにかくいろんな会社やいろんな人と名刺を交換したことで評価される機会が増えました。今、冷静になると笑ってしまう話ですが、展示会や異業種交流会に連れて行かれ、「今日は名刺を◯◯枚交換するまで帰ってくるな」と言われたりしていたのです。今思うと、ただ名刺を交換しただけで何の商談にも繋がらないのであれば、単なる資源の無駄遣いです。でも、とにかく必死でした。
価値のスコアリングと「リア充」という同調圧力
そうして社会人生活が続き、ダメ押しになったのがSNSだったのだろうと思います。マイミクの数が増えていくのに喜びを覚え、Twitterのフォロワー数の増減にドキドキしたのが昨日のことのようですが、いわゆる「友だちの数」がスコアリングされるようになってしまったことの功罪を全身に浴びたのです。
特にTwitter初期は今ほど殺伐としていなかったので、キャッキャウフフのオフ会に参加しまくり、「けまらしい」と言われてもフォロー/フォロワー数が増えるのが楽しかった。自分の価値が数値化されていくような快感と怖さが同時にあったのです。「ぼっち」という言葉も、この頃から盛んに目にするようになり、「ぼっちは嫌だ」「みじめだ」と思うようになったことも大きかったかもしれません。要するに、孤独と付き合えるほど成熟していなかったんですね。
友だちの多さで自分の価値を測るのもうやめたい
あれこれ書きましたが、今でもTwitterのフォロワー数が減ると少しさみしいです。一瞬でもわたしに興味を持ってくれた人が、今は興味を失ってしまったのだな、と感じるからです。
でも一方で、「フォロワーの数は、自分に向けられた銃口の数」という考え方も理解できるようになりました。「わたしに興味を持ってくれている」というのは、ポジティブな意味だけではないのです。ネガティブな意図で、わたしが失敗したり、不幸になるのを期待したり、失言を待って揚げ足を取ろうと、こちらを伺っている人も、フォロワーの中には含まれているのですよね。そういう意味でも、数が多いからスゴい、という価値観は早めに手放していきたいなと思うようになりました。
前回の記事を書いたあとに思ったのは、多くはないけれど、わたしには友人がいる。わたしと夫の結婚の証人になってくれた友人がいるということ。頻繁ではなくても、折りに触れ飲みに誘ってくれる友人がいるということ。お互いライフスタイルは変わったけれど、居心地のよい遠さで付き合ってくれる友人がいるということ。片手で数え切れてしまう規模の人数ですが、これがわたしの抱えられる人間関係の上限なのかもしれません。
自分の上限が分かったからこそ、この人数規模なのだろう、と思うとだいぶ気持ちもすっきりしてきました。まず「友だちの人数」で人生の豊かさを測ろうとしないこと。夫という親友が1人いてくれるだけでも、わたしにとっては上々です。
そんなことを考えつつ、引き続き「友だち」とはなにか?について思いを馳せてみようと思います。また書けたら書きますね。
今日はそんな感じです。
チャオ!