賑わう居酒屋のレジでお会計を済ませ外へ出て、少しすねたような様子で人の流れを眺めている彼の後ろ姿を探した。投稿した作品の合否が来ず、気落ちしている彼を励まそうと仕事帰りに夜の新宿へと繰り出したけれど、ビールと焼鳥の串が並ぶ机には落胆のため息ばかりがこぼれた。
「こんなんじゃ酒がまずくなるよな、ごめん」と彼が言うので、早々に居酒屋の席を立った。わたしたちは煙草の煙に押し出されるように店を出て、深夜の歌舞伎町を歩いた。いつもなら隣に並ぶとすぐに手をつないでくれる彼は、両手をポケットに突っ込み、「心ここにあらず」と言った様子でぼんやりとネオンサインに目を向けている。ねえねえ、やっぱり飲み足りないから、もう一軒いこうよ?笑顔を作ってそう尋ねても、返ってくるのは生返事で、わたしはその次の言葉を見つけることができず、口ごもってしまう。
しばらくして終電を見送り、なのに行くあてがなく、歌舞伎町のブロックをぐるぐると歩いた。飲み屋が居並ぶ雑居ビルの照明と、ラブホテルのぎらぎらとしたネオンが変わりばんこで視界に入り、数人ずつ固まりになって立っている外国人やスーツを着たホストが、こちらをちらちらと見ているのが分かる。
隣を歩く彼にどんな言葉をかけても、中途半端な慰めにしかならない気がして、思いついた言葉たちは喉の奥でしゅわしゅわと溶けていってしまった。沈黙。とぼとぼと、ただ足を規則的に左右へ踏み出しているわたしたちは、どこへ向かえばいいんだろう。彼は相変わらず斜め上をぼんやりと眺め、どうする、とも言わずに、ただひたすら歩を進めている。たまらなくなって手を伸ばし、ぎゅっと彼の左手を掴んだとき、金属が響くような甲高い音が、耳に届いた。
「何の音?」
彼が興味を引かれたように、やっと口を開いた。わたしもすがるようにして答える。「なんの音だろ。どこから聞こえるんだろうね。あっちの方かな?」キン、カキン、と断続的に届く音をたよりに歩いていくと、高く張り巡らされた緑色のネットと、その手前にくすんだ建物が見えた。
「バッティングセンター」と書かれた看板が掲げられている。さっき聞こえた甲高い音は、金属バットがボールを打つ音だったのだ。もう夜もだいぶ遅いのに、その一帯だけは煌々と灯りがついていて、入り口付近には缶ビールやチューハイを片手に笑う人たちがいた。
その様子に少しひるんだけれど、思い切って彼の手を引いて「行ってみよう」と言い、店の引き戸を開けた。雑然とした店内に足を踏み入れる。タバコの臭いがする。店の入口を入って右手には、古びたゲーム機が並んでいる。左手に打席のブースがあり、ブースと通路の間は、ネットと古ぼけたガラス戸で仕切られている。その向こうにバッティングブースがあるようだ。狭い通路にはぼろぼろのベンチが不規則に並び、バッティングマシーンの打順を待つ人、打席に立つ友人をヤジるサラリーマンの集団、ただ行き場をなくし時間を潰しているカップルなどが様々な表情を見せていて、深夜とは思えないほど賑やかだ。BGMには、大きな音で少し昔のJ-POPが流れていた。
その中でも一番急速が遅いブースが空いていたので、ガラス戸を開け、財布の中から小銭を用意していると、彼が驚いたように聞いた。
「え、お前、できんの?」
「できるよ!」
と答えて短めのバットをラックから引き抜き、細長い穴に小銭を投入した。隣近所のブースを見よう見まねでバッターボックスに立つ。デジタル表示のピッチャーのアニメーションが、こちらへ向かってボールを投球する。
最初の一球は、いつ投げられたのかすら分からなかった。バスン、という音が自分の右側から聞こえて、目の前を白いボールが行き過ぎたことに気付く。ハイヒールを履いたままじゃ無理だ、と思い、両足とも後ろに脱ぎ捨てた。足を踏ん張り、ボールの送出口に目を凝らす。二球目。またボールは見えない。でも、送出口から押し出されるように投げられた白い円形は、なんとか見えた。三球目。思い切ってバットを振るが、かすりもしない。四球目。バットを振ると、下側に軽く、カツンと当たった感触があった。ボールは地面を転がっていくだけだったが、嬉しくて思わず後ろを振り返った。ガラス戸の向こうにいた彼がドアを開けて乗り出し、ネットにもたれてこちらを見ていた。
「タイミング、合ってるよ!うまいじゃん!」
今日初めて聞いた明るく張りのある彼の声に、胸がつまる。急いで目線を戻すと、五球目が投げられた。ぐっと左足に力を入れて、思い切り振り抜く。バットに弾かれたボールは、斜め下を低く前方へ滑っていった。「当たった!」とはしゃいだのもつかの間、それ以降は一球も当たることはなく、ただ足の裏を汚しただけで終わった。
右腕の肘から先がビリビリしているし、手のひらは痛いし、身体は汗ばんで不快だけれど、不思議と気分が高揚していた。脱ぎ捨てたハイヒールに再び足を入れ、ブースを出ると、彼が笑顔で迎えてくれた。バットを握って汚れた手のひらが気になっていたが、彼がぎゅっとわたしの右手を握り、「おれもやってみようかな」と言って、空いているブースを探した。
わたしより早い球速のブースがちょうど空き、彼はわたしにカバンを預けて、打席に立った。カランカラン、と百円玉が吸い込まれる音がして、ラックからバットを引き抜き、両足を踏みしめて構える彼の背中を見つめた。せめて、当たって。祈るように見つめていると、一球目が投げられた。空振り。二球目、空振りだけれど、あと少し。白いボールはまっすぐ彼に向かってきて、こちらから打つ瞬間は見えない。ただ、祈るだけだ。三球目。四球目。五球目。と球数を重ね、空振りが続くが、彼は笑顔を見せ始めている。
「全っ然、当たんねー!」と彼が明るい声で叫び、球数が残りあと少し、というところで、キン!という澄んだ音がした。ボールはブースからまっすぐネット上部に飛んでいく。
斜め上に飛んだボールは、くたびれた緑色のネットに掲げられた看板にぼこん、と当たって、地面に落ちた。看板周辺のネットに引っかかるように飾られている控えめな照明がチカチカと点灯し、「お、すげえ、ホームランじゃん!」と、誰かが言うのが聞こえる。打席に立つ彼も「ホームランだ!おれ、初めてだわ」と言ってわたしを振り返った。その表情は晴れやかで、うん、すごい、すごいね!と頷きながら、わたしたちは笑いあった。
「○番ホームランの人、景品を受け取りに、受付まで来てください」と場内アナウンスが流れる。バッターボックスから出た彼がわたしの手を引き、人をかき分けて受付へ向かった。彼は高揚感からか、声が大きくなっていて、ガラスケースに飾られた景品のひとつ、高級ゲーム機を指差し、「もしかしてこれがもらえるんじゃない?」などとどうでもいいような話をして、一緒に笑った。ぎゅっとつないだ手は、力強かった。
受付にたどり着いて説明を聞くと、ホームランを打った人は、景品がもらえる他に、記念名簿に名前を書けるらしい。景品を受け取り、誇らしげに自分の名前を書く彼のペン先を見つめながら「すごいね、すごいね」と何度も言った。
あなたはいつだってすごくて、そんなことわたしはとっくに知っていたけれど、何度でも何度でも「あなたはすごいね」と、そう口にしたかった。そんな夜だった。