インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

「オバサン」を受け入れるのには胆力がいる

今日、45歳になった。

……と書いたところで、めちゃくちゃビビった。自分がその年齢になったことを、まだ受け入れられていないのかもしれない。かといって「気分はまだ30代!」という感じでもないし、「もうオバサンよ〜」というノリでもない。

なんというか、「わたし」が「わたし」のまま年齢を重ねたら、こうなっちゃった、という感じがするのだ。

変わったこと、変わらないこと

20代の頃と変わらず変な音楽が好きだし、インターネットが大好きだ。今年になってからは、お笑いライブにハマってあれこれ首を突っ込んだりしている。確かに音楽ライブより、お笑いライブは「座って観られる」というメリットがあり、そこに楽さを見出している時点で加齢を実感するけれど、好きな芸人を見つけ、近況を追い、チケットをちまちま探して劇場へ足を運ぶ、というのを子育ての合間にできているのは、なんとなく自分が思っていた40代の行動ではないよなあと思う。端的にいうと「思ったより元気で軽率」な感じがするのだ。

とはいえ加齢を実感、いや痛感することも増えた。子宮内膜症子宮筋腫といった持病もあるし、頭痛やめまい、吐き気に悩まされる日が続いている(これは現在治療中)。

月経もある月とない月があり、こうして「産む」ことから解放され、閉経へ向かっていくんだな〜と人体の不思議に感動することもあるが、基本的にはそんなに楽しいものではない。白髪も増えたし、顔のたるみやシワも「ここにいるぞ!」という感じで存在感を増してきた。ビデオ会議はウェブカメラのフィルター効果でなんとかやり過ごしているが、明るいところで自分の顔を見ると「ギャーッ!」となるくらいシミ・ソバカスだらけだったりもする。とはいえ白髪については、まだもう少しヘアカラーを楽しんだあとにグレイヘア(染髪せず白髪をそのまま活かす髪型)へ移行しようと思っているので、むしろ少し楽しみではある。

亡くなった祖母がとても美しいグレイヘアだったのだが、柔らかく後ろになでつけた短い髪がふだん着の着物と割烹着によく似合っていた。なので「おばあちゃん」になることへの忌避感はないのだが、その前に「おばさん」を経由することへの心の準備が、まだできていない。

なんというか、単なる今までのイメージの問題なのだと思う。

わたしの世代で「おばさん」というと、漫画やバラエティで面白おかしく取り上げられる「あつかましい中年女性」を「オバタリアン」と呼んでいたイメージが強く、「ああはなりたくないもの」とされていた気がする。

まあ否応なしになっていくのが「おばさん」なのかもしれないけれど。

「おばさん」の期間って、意外に長い!

以前、こんなことをツイートした。

そう、人生が80年、順調にあるのだとしたら、驚くことにまだ今は折り返し地点で、なんとおばさんになってからの人生のほうが、ずっと長いのだ!

このまま「おばさん」経由で「おばあちゃん」へ突き進むとしても、あの嵐のような10〜30代と同じだけの月日をまた歩んでいくのかと思うと、少し気が遠くなる。ならばポジティブに「おばさん」をやるのも、それはそれでありなのかもしれない。

それに、自分が「中年女性」という属性を得たことによる良さ、みたいなものも感じることがある。まず、貫禄がついたことで、頼られることが増えた。頼られるというか、信頼感を得やすくなった。これはただ「若い」というだけで舐められがちだった20代にくらべると、大きな違いである。それからちょっとしたことでは動じなくなったし、まあ、なんとかなるでしょう、と構えていられるのは、経験と年齢を重ねたおかげだと思う。

また周りからも「中年女性」として見られることで、ちょっとした小言なんかも「生意気」な感じなく、伝えやすくなったように思う。(そのぶん「圧」が出るので言葉尻にはじゅうぶん注意する必要はあるが、言葉が届きやすくなった、という意味で)

例えば困ってる人を見かけたら「大丈夫?」と声をかける、とか「やめてあげなさいよ」と軽く伝える、とかは、若い女性の頃にはなかなかやりにくかった。警戒されにくくなった、というのかもしれない。おばさんは街中に偏在するので、わたしもその中に埋没し、モブとして優しい言葉をかけたりいたわったり、無名の市民としてやりやすくなったように感じる。

街のおばさんとして埋没しながらも、自由に生きる「イケてるおばさん」になる道だってある。わたしだって、なれるものなら『マッドマックス 怒りのデスロード』でバイクを乗り回し銃をぶっ放す「鉄馬の女」のように、自由で勝ち気でイケイケなババアになりたい。また、思いつく範囲でも、翻訳業をしながら飄々と猫と暮らしお酒を豪快に飲む素敵な「おばさん」がいたり、先立った夫が遺したレコードを聴きながらワインをたしなみ、気まぐれに若い子の人生相談に乗ってやる「おばさん」もいる。

なんというか、わたしが子どもの頃に見えていた「おばさん」はなんて限定的なものだったのだろう、と感じることが増えた。バリキャリでなくても、結婚していなくても、豊かで美しい暮らしを営む素敵な中年女性はたくさんいる。ただ、わたしが幼かったせいで、見えていなかっただけなのだ。

そういう「素敵なおばさん」像が見えてきたのは僥倖であり、わたしみたいに小心者で周りの目を気にしてビクビク生きてるタイプからすると、これはもう大きな進歩なのである。

 

このあたりの「素敵なおばさん」像の補強は、ジェーン・スーさんの活動や岡田育さんのこちらの著書を読んだ影響もあるかもしれないので、「おばさん」というワードに無駄に怯えている人には、ぜひ一読を薦めたい。

いろいろやっていくぞ!

とはいえ、まだまだ「お若いですよ!」が褒め言葉として使われる世の中で、「おばさんです」と自称するのは勇気がいる。

自虐として長く使われてきた言葉だし、自虐的な中年は本当に痛々しい。慰めを求める下心が見え隠れするからだと思うのだが、それでも勇気を持って「おばさん」を楽しんでいこうと思う。

そしてその勇気は、自分の中の偏見や思い込みをぶっ壊すために使っていこうと思うのだ。それは、「おばさん」「お姉さん」みたいな呼称に振り回されない「自分」が仕上がってきたからこそだと思う。自分の土台がしっかりしてきたからこそ見えてきた、「ここは要らないな!」と思う自分の壁を、自力でぶっ壊すことができるようになったからだ。

 

これまでの自分で作ってきたものを、これからの自分が壊していくタイミングが中年で、その胆力を持てるのが「おばさん」なのだとしたら、なかなか悪くない。白髪もシワも、たるみも中年太りも、みーんなひっくるめて「今までのわたし」の結果なのだから、まあ仲良くやっていこうや、と思っている。

 

45歳、思ったより若造だが、思ったよりいろんなことを見聞きしてきた自負もある。

そういう中間期だからこそ、今までできなかったこと、今だからできること、死ぬまでにしたいこと、いろんな「やりたい」を手放さずに、おいしいところどりをして、しぶとく生きていってやろう。そう思う45歳の誕生日なのでした。

 

今日はそんな感じです!

チャオ!