自宅保育になり2週間が過ぎた。たぶん、そのくらい経ったと思う。そのくらい記憶が曖昧で、1日を乗り越えるだけで精いっぱいだ。保育園に通わせていたときは大変ながらも楽しみだった土日が特別ではなくなり、在宅勤務のおかげでルーティンが固定された平日よりバランスの取りにくい、悩ましい日になってしまった。
そんな愚痴はいいとして、本当にじわじわと疲れが溜まっているのを感じる。正直に言うと、出産直後よりきついかもしれない。出産直後は眠れない、数時間おきに授乳がある、不慣れな育児でストレスが溜まる、などの要因はあったけれども、それでも日に日に前進している実感があった。出産直後、「3ヶ月と同じ悩みは持たないよ」とアドバイスされたことがあるが、本当にその通りで、頻繁に授乳があり大変だなあと思ったらあっという間に離乳食になったし、離乳食で悩んで四苦八苦していたらあっという間に普通食になる、というように、終わりが見えていた。終わりが見えていれば、この辛さが期間限定だと分かっていれば、一人っ子保育の我が家はなんとかなった。
しかし今はそうではない。緊急事態宣言がいつ解除されるか分からないし、そもそも解除されても保育園の休園が終わるとは限らない。そんな些末なことに不平を漏らしている状況ではないことは分かっているけれども、終わりがない辛抱というのは思いのほか、心にくる。心に余裕がないと生活も楽しめないし、常に息苦しい気にもなる。
終わりのない辛抱を耐える術をわたしは知らない。どんなに辛いプロジェクトも、人間関係も、仕事であればいつか変化せざるを得なかった。しかし生活はそうはいかない。毎日のことだし、メンバーの顔ぶれが大きく変わることはそうない。その上でがっちりと制限がかけられているのは、生きる上での礎に重しがかかったような息苦しさだ。これをみんなどう乗り越えているのだろう。好きなものを制限され、公園の遊具を封鎖され、友達とも会えなくなった娘のストレスはいかばかりか。
大人だって好きなものを取り上げられるのはつらい。せめてこの時間を楽しもうとしているけれども、その無理やりな前向きもいつか破綻するだろう。
しかし、こうやって泣き言を言い、若い頃のようにのほほんと生きていられればよかったと思って音を上げそうなときもあるけれども、今日、娘におやつをあげていたらふと「オイシイネ」と笑ってくれたのを見て、絶対に乗り越えるぞと思えた。
そういう小さいけれども確かな幸せを感じることでまだ何かやれるような気がするし、こうして文字にすることでわたしは生き延びてきた。だったら、また文字にして乗り越えていければいい。そう思いながらこの文章を書いた。