インターネットの備忘録

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行き止まってもなんとか生きてく/こだま「夫のちんぽが入らない」感想文

正直、読み終えた今もこのタイトルには抵抗感があります。タイトルのインパクト勝負じゃないのか、あえて過激なタイトルにすることで目を引こうとしたんじゃないのか、このタイトルを見たときの自分がそう思わなかったのかと問われれば、否定はできません。それでも特設サイトで冒頭文を目にして「ああこれは読まなければ」と思い手に取った、そういう感じの感想文です。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

著者である「こだま」さんは、”あそこ人口より熊のほうが多いんでしょ”と言われるほどの田舎から大学進学で街に出てきて、同じアパートに住む男性と出会いあっという間に付き合うことになります。こう書くと、田舎から出てきた女子大生が恋人と結婚し就職して経験した様々な出来事を綴る生き様エッセイのように見えますが、実際は様々な「行き止まり」にぶち当たり、そのたびに疲れたり諦めかけたり目をそらしたりしながらも、自分の足場をなんとか確保していく物語です。

そしてもっとも強大な「行き止まり」がタイトルであり、その事実が彼女の人生の大きな引っかかりとして横たわっています。

「おかしいな、まったく入っていかない」
「まったく? どういうことですか」
「行き止まりになってる」
 ーP.30より

初めてこだまさんと恋人(のちの夫)が行為に至ろうとした際、こんな会話が交わされます。挿入を試みるも、痛みだけが激しく、入らない。痛み、出血、そしてもたらされる「無能」感。しかも後に「夫以外のものなら、入る」という事実が判明し、そのことがさらなる苦悩を加速させる。

このこと以外にも様々な「行き止まり」が彼女の前に立ちはだかります。なりたくて教職に就いたはずだったのに、学校に行くのがつらく精神を病んでしまう。荒れる生徒に向き合えず、そのことを夫にも打ち明けられない。退職し、無職を経て臨時講師として働き始めても病のため療養せざるを得なくなる。ならばと子供をつくり産もうとしても、うまくいかない。

他の人が「ふつう」にやれていることができず、彼らがいう「ふつう」の道を進もうとすると行き止まりになっていて、どうしても先へ進めない、という事実が次々と現れて、彼女の望みを奪っていきます。でも、それでもわたしたちは死なない限り、どうにかして生きていかなければいけません。だって、簡単には死ねないんだから。

わたしたちは大なり小なり、こんな行き止まりにぶち当たって、そのたびにガッカリしたり自信を失ったり、また奮い立たせて歩みを進めようとします。こだまさんも同じように、他の人に比べたらかなりハードモードにも思える人生に、「立ち向かう」というほど暑苦しくもなく、どこにつながっているかイマイチよくわからない長い道のりをただ淡々と歩いているように見えます。そうして歩くこだまさんの隣には、夫や、病や、時間という”救い”が寄り添っていて、それはとても静かで穏やかな空気をもたらしてくれているようにも見えます。

ちんぽが入らない人と交際して二十年が経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい。子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。私たちには私たちの夫婦のかたちがある。少しずつだけれど、まだ迷うこともあるけれど、長いあいだ囚われていた考えから解放されるようになった。
 ーP.193より

この200ページ前後の書籍一冊で、彼女の人生20年を理解できるはずはありません。でも、ああ、ここにも自分と同じように行き止まりにぶち当たり、そのたびに首をかしげたり、汗をかいたり、ため息をついたりして、なんとか進もうとしている人がいる。その事実だけで、わたしはとても救われるな、と思いました。

自分自身の話をすると、結婚をして失敗をして、両親からそのことを嘆かれ、ときに酒の肴として笑いのタネにされたり、友人に再婚を催促され、たいして親しくもない子持ち女性に延々と出産を焦らされる説教をされたこともありました。同情されても気を使われても、腫れ物のように扱われても、どう扱われても、居心地が悪いことに変わりはありません。わたしだって、こんな「お荷物」になりたくなかった。ときに「あなたのためを思って」と、強い言葉で叱咤激励されるときがあります。彼女の言葉はきっと善意からなのでしょうし、言われるたび、わたしだって分かってる、そうできればどれだけよかったか、できていないことに誰よりも絶望しているのは、わたし自身なのに、そう思いながらもその場を笑顔で切り抜け、ひとり泣くこともありました。
そうして何度も何度も尖った石をぶつけられてできた傷は、ぶ厚いかさぶたを鎧のように固くして、わたしを守ってくれるようになり、めそめそと泣くことも減りました。それでもふいにこうして、自分と同じように尖った石をぶつけられた人の物語に触れたとき、心の奥をつかまれたような気持ちになって、涙がこぼれる瞬間があります。ただそれは同情でも憐憫でも、自己陶酔の涙でもなく、「そっちもそっちで大変だけれど、お互いなんとかやっていこうね」という親愛の涙なのだと思います。

それでもやはり、このタイトルを両手放しで褒める気持ちにはどうしてもなれないし、茶化しておもしろがれる感じでもありません。わたしはわたしで何かが入らず、行き止まりになってしまっている人間で、面白がっている人たちをどこかで「向こう側の人」として、距離を感じてしまうせいなのかもしれません。そういう気持ちを自覚させてくれたことと、それでもこのタイトルを選んだこだまさんのバランス感覚とユーモアに敬意を表しつつ、この感想文を締めくくりたいと思います。

試し読みはこちらからどうぞ。

www.fusosha.co.jp

今日はそんな感じです。
チャオ!