本日お誕生日。振り返るとまずこの1年を無事に終えられてよかったと思う。
無事に、というのは昨年の誕生日に記事を書いて、
hase0831.hatenablog.jpさてどんなふうに生きようかと思っていた矢先に妊娠が発覚し、何はともあれ母子ともに死なず生き延びようと決意したことからだった。
病院では「高齢出産」「ハイリスク出産」と連呼され、その言葉の響きに怯えた。
そして無事に今年の5月、子供を出産することができ、母子ともに健康だ。というか産後3ヶ月経った今、すこぶる元気で、「育児疲れとかまったく見えないですね?!」と驚かれるほどである。これはひとえに夫のおかげで、わたしの体調第一優先で夜中のお守りを変わってくれたり、定期的に息抜きの時間を作って外に出してくれているおかげである。
さて、この1年どう生きたかと言えば、何しろ必死だった。出産に向かっていく肉体の変化は、本当に凄まじかった。自分のお腹と乳房は想像よりはるかに膨らみ、手足は浮腫んだ。手のひらはまるでクリームパンというか野球のグローブか?というほどパンパンになった。足の指も芋虫がずらりと並んだように丸々しくなり、我ながら笑ってしまうほど不格好になった。でもそれでも毎日変化していく肉体が愛おしく、自分の身体が日々子供を産むための準備を進めている様子を楽しく見守った。
出産そのものはどうだったかというと、破水から約19時間、長い格闘の末、最終的には低酸素状態になり顔に酸素マスクを押し付けられながら病院内を搬送され、ようやくひねり出した赤子は肺気胸で、いきなり母子別離となってしまった。NICUのある別の総合病院に搬送されるまだ小さな娘を夫と見守ったあの日のことは、一生忘れないと思う。小雨が降る救急搬送出口まで車椅子で連れて行ってもらい、大量出血と長い陣痛のあとだったにも関わらず、思わず大きい声で「よろしくお願いします!」と救急隊の方々に声をかけ、頭を下げた。初めて「自分が守らなければならない小さな生き物」の存在を知った。同時に自分の無力さも初っ端から思い知らされた。
その後、娘は見込みを大きく短縮して元気に戻ってきて、フロアのどの子よりも大きな野太い声で泣いた(娘が処置室から戻ってくると「あ、うちの子だ」と泣き声でわかるほどだった)。そして3ヶ月経った今、最初にそんなトラブルがあったことすら嘘のように元気に毎日育っている。
出産の顛末というのは100人いれば100通りあるものだから、わたしの経験も書いたらどこかで役に立つかもしれないけれども、なんとはいえ必死だったので、記憶がおぼろげだ。でも薄暗い分娩室で夫と手をつなぎ、いつ終わるのか分からない不安と戦いながら「この子を幸せにできるかな、してあげようね」と誓いあった、恥ずかしくなるほど純粋な気持ちは忘れない。
普段、いろんなことに小難しい理屈を付けいろいろ考えて生きているつもりだが、あの瞬間は「何しろこの子を絶対に幸せにしなければいけない、そのためにはわたしたちも絶対に幸せになりたい」と強く強く思った。
娘はわたしの中で育ちわたしから生まれたわたしの元一部だが、やはり別の人間である。娘である彼女の幸せはもちろん大切だけれども、血の繋がりもないのにこんなに愛し合っている大切な他人である夫のことは、それ以上に幸せにしなければいけない、と強く思う。
夫とはお互いの決意のみでつながっている関係だ。親子のように血縁があるわけでも、誰かから強制された関係でもない。この人と一緒に生きて、歩いていきたいと思う決意のみがわたしたちをつないでいる。それを愛というのかもしれないし、もっと年月が経つと情というものに変わるのかもしれない。いずれにせよまったく異なる生まれと育ちの二人が出会い、家族を作る決意をして、幸運なことに子供までできた。必死、というと表現は少し違うかもしれないけれども、今後はこの家族を守り幸せにすることに必死になるのだろうと思う。
2018年の夏の終わり、そんなことを考えています。
今日はそんな感じです。チャオ!