元エントリはつらすぎてリンクできないので、こちらを。
わたしはこの「屋上で話を聞いた女の子」の役割を求められることの多い人間でした。子供時代は家族の中で母親的な立ち居振る舞いを求められることが多く、「しっかりしている」「いいお姉ちゃんね」 と褒められることを、誇りに思うような子供でした。大きな問題にぶつかるたび、大人ぶって、「仕方がないよ、そういうものだもの」とよく言いました。いまも言いますが、子供時代は、いつも、そう言い続けていました。母親が入院したときも、家族にトラブルが起きたときも、受験や、クラブ活動を諦めなければいけなくなったときも、「仕方がないよ」と言って笑うたび、世界と自分の間にあるガラスの壁が、どんどん厚くなっていくようでした。透明な壁の存在に気づく人は少ないですが、わたしにとって「向こう側の世界」はとても遠く、違う世界のように感じられていました。
「仕方がないよ」という言葉は、本心からではなく、そう言っていないと、本当に、心が死んでいってしまうからでした。大きすぎる問題に立ち向かうには、当時の自分はあまりに幼く、力も、知識もなかった。ただ「受け容れる」、そうするしか、方法がなかったからです。
現在に至る途中の過程は割愛しますが、いま振り返ってみると、「仕方がない」なんて、言ってはいけなかったんだと思います。もっとわたしは怒り、拒絶し、泣きわめくべきでした。子供だったんだから、そうして良かったはずなんです。でも、できなかった。表面では笑って「仕方がないよ」と言いながら、内面では「なんでこんな我慢をしなければいけないの」「何でこんな目に遭わなきゃいけないの」と、いつも思っていました。でも、言えなかった。それは、言ったら周りに迷惑をかけるから。わたしが自分の感情をあらわにすることで、困る人がいるから。わたしのために、誰かに何かをさせなければいけなくなってしまうことが、とても悪いことのように感じられていたからです。だったら、わたしが我慢をして、本当の気持ちを隠してしまえばいい。わたし1人の気持ちを殺すことで周りが平和に過ごせるなら、それが一番、いい。
でも本当は、そんなことをしてはいけなかったんです。その「思考のクセ」は、わたしを長い間、苦しめました。そして、そういう思考をする人間を、元エントリのような人は敏感に察知し、近づいてきます。表面は「あなたの苦しみを理解しているよ、だから僕の苦しみも理解できるよね」というふうに親しさを装い、近づき、自分のヘドロのような感情をわたしに押し付けて、用が済むと、去っていきます。わたしは一方的にゴミを押し付けられて、ひとり呆然としますが、ただ笑ってこう言うしかできないのです。「仕方がないよ」。
元エントリの男性が、加害者性や性嫌悪について自分を見つめ、考え、テキストとして公開したのは、賞賛されてよい行動だと思います。もしかしたら、ああして公開することで、誰かに勇気を与えたかもしれません。自分の内面に向き合うことは、とても大切です。根の深い問題であればあるほど、苦しいし、恥ずかしいし、逃げたくなることもあると思います。それに立ち向かおうとする姿勢は肯定したいけれど、立ち向かう過程で、誰かを踏み台にすることは、絶対にあってはいけません。抱えた問題を誰かに話すな、というわけではありません。立ち直るプロセスで、信頼できる誰かが、自分の話を傾聴してくれる、というのは、とても暖かく、価値のあることだと思います。でも、話しを聞いてもらう相手だって、ただの人間で、いろんなものを抱えて、泣きたくなる日も、悲しみに立ちすくむ日もあるんだ、ということを忘れないでほしいと感じました。
くたびれはてこさんのエントリを引用して終わりにします。
まず自分の境界をはっきりさせること。次に「わたしは大丈夫だから」と彼に、またほかの誰にもあなたの境界を踏み越える癖をつけさせないこと。
自分の怒りを肯定してください。誰かがあなたの安寧を脅かすような行動をしてきたら、きっぱりと拒絶してください。自分を傷付けてまで、誰かを救う必要はありません。また、あなたを傷付けてまで自分を楽にしたがる人とは、距離を置いてください。何度でも書きますが、あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はないんです。
過去のわたしのような女の子が一人でも減ることを、願ってやみません。
以上です。