インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

20161002

やや晴れたものの蒸し暑い日。秋はいつ来るんでしょう…。

月が変わったのを機にhuluを解約してNetflixに乗り換えました。そういえば最近映像コンテンツにあまり触れなくなっていたなと思っていたので、久しぶりに観てみようかと。

早速「キルラキル」を2話ほど見返しましたが、やっぱり面白かったー。

また色々掘りたいです。

夜は意気揚々と串カツ田中の100円セールへ赴いたものの、飲んでいる途中でなぜか急激に不調に襲われ迷惑をかけてしまうなど情けない感じに。最近あまり眠れていなかったり季節の変わりめなこともあり、自重せねばと反省しました……。いやー、ほんと、ダメですね。

 

みなさまもどうぞご自愛のほど。

それでは。

20161001

秋だ!と思っていそいそとタイツを履いて出たらまだ暑かった。そんな日でした。

大宮までお出かけしまして、居酒屋めぐりをして好きな音楽を聴いてまた立ち飲みへ、という贅沢な夜。

いづみや 本店(大宮/居酒屋) - Retty

なごみ(大宮/立ち飲み) - Retty

角打ち 酒屋の隣(大宮/居酒屋) - Retty

いいお店ばかりでした。また開拓したいな。

それでは。

20160930

秋だ!と思わず声に出してしまうような気候でした。涼しかったですね。

9月の終わりとともに今いる環境を離れることにしました。なにかうまいことを言おうとしてもまったくダメだったのでこれで!

透明人間

透明人間

またあなたに会えるのを楽しみに待ってさよなら

まだ掴んでいられたかもしれない手を離すのは本当に悔しく悲しくそして寂しいけれど、それでもまた会えることを信じて!さよなら!

閉じ込めておくことはできない

 金木犀の香りがする、という声をあちこちで見かけた。へえ、と思いながらも駅へ向かう道のりで確かにわたしも金木犀の香りを感じたような気がして、ああ、今年も秋が来るのだと思った。

子供の頃、通学路には様々な植物が植えてあって、その顔ぶれの移り変わりで季節を実感していた。つつじ、くちなし、ひまわり、そして金木犀。特に香りの強い金木犀は、花が開くとすぐに分かるので、学校からの帰り道、毎日のようにその小さなオレンジ色の花をじっと見つめ、匂いをよく嗅いでいた。自分の身長よりはるかに高い金木犀の樹に一歩近づくと、匂いがいっそう濃くなり、通学路から外れた自分が、その匂いの中に包まれてしまうような気分になった。
 
小学校5年か、6年のときだったと思う。やはり秋で、金木犀の香りが立ち始めた頃、どうしても我慢ができず、金木犀の花に手を伸ばして、摘んでしまったことがある。小さな鞠のようなオレンジ色のかたまりをひとつかみ、ふたつかみ掴んでポケットに入れ、自宅に持ち帰った。蓋つきのガラス容器を押し入れから見つけていたので、その中に花を詰めておけば、香水のようにいつでもその香りが楽しめるのでは、と思ったのだ。ワクワクしながら小走りで家に帰る途中、当時、入院していた母に見せてあげよう、と思った。母の化粧鏡の前には香水の空き瓶があり、今はもう付けないけれど、きれいだからとってあるのよ、と言っていた。それを聞いたわたしは、おかあさんは香水が好きだけど、でも、いまはわたしたちのおかあさんだから、本当は欲しいのに、買うのを我慢しているんだ、と思っていた。実家が会社を経営していて、蝶よ花よと育てられたお嬢様な母が、質素な倹約家であった父に無駄遣いを咎められているのをよく見ていたせいかもしれない。

だったらわたしが好きな金木犀を香水にして持っていってあげよう、という子供らしい浅はかな考えでガラス容器に花を詰め、水を注ぎ、蓋をして、水に香りが移るのを期待した。どこに置いておけばいいか考えあぐね、見つかりにくいであろう学習机の一番下の、大きな引き出しにそっとしまった。見つかりにくい、とは誰にだろう?  もちろん父にだ。厳しかった父は、わたしが女性らしい装飾に興味を持ったり、華美に着飾ることをあまり好まなかった。それはもしかしたら、母に対しても同じだったのかもしれない。特に具体的な理由はなかったが、見つかったら父に怒られるかもわからないから、これはわたしとおかあさんだけの秘密にしよう、と思っていた。次の週末、母の病院へ見舞いに出かけようとして引き出しを開けた。密閉容器の中で水に浸されたままだった金木犀の花は黒ずみ、その臭いは、香水どころの騒ぎではなかった。ワクワクして風船のようにふくらんでいた気持ちがぺしゃんこになり、父に見つからないよう、こっそりとお手洗いに中身を流した。その後のお見舞いがどうだったか、まったく覚えていない。もしかしたら拗ねて急に「行かない」と言い出したのかもしれない。

とにかくわたしの計画は大失敗に終わった。その後、退院した母は年末に自宅に戻り何事もなかったかのように日常が続いた。それ以降、母は入退院を繰り返すことになる。わたしは子供時代を奪われたような気持ちで不満と怒りを抱え、かといってそれを口に出すこともできないまま残念な大人になった。

大人になり、母の化粧台にあった香水の名前がゲランの「ミツコ」だということ、不満をこぼしながらも母が父を深く愛していたこと、父の倹約はわたしたちが住む家やわたしたちの将来のためだったということ、などを知るようになる。要するに、当時のわたしは、あまりにも何も知らなかったのだ。摘んできた花をただの水道水に浸けても香りは移らないし、わたしが知らない両親の顔や苦悩があるのだというのを、何も知らなかった。だからといって、当時、摘んできた金木犀の花をガラス容器に詰めた何も知らない自分を、責める気にもならない。やってみなければ、間違えてみなければ分からないことだってあるのだ。ガラス容器の中でゆっくりと腐っていった花のことを思い返すと、どうにも申し訳ない気持ちになるけれど、どんな感情も、閉じ込めておくことなんてできない。失敗してみて分かることがあるし、振り返れるようになって始めて知ることだってあるのだ。だから、あれでよかったのだ。今はそう思っている。

金木犀のことを考えたら、そんなことを思い出しました。
今日はそんな感じです。
チャオ!

20160929

涼しいかと思わせてやや蒸し暑い、中途半端な日でした。

本日も後輩とランチへ。愚痴を聞いたり相談に乗ったり、みんないろんなことを抱えてるんだな、と思いました。働くって、しんどいこともあるけれど、人と関わりお金と物事を動かして、誰かと信頼関係を築いたり震えるほどの達成感を味わえたり、本当に面白い。しかもそんな面白いことをしてるのに、お金までもらえるなんて、すごいよね、という話から、どうしてそんなふうに思えるようになったかが思い出せないけれど、でも結局、いま自分がやっていることの理由と意味を、誰かに言われなくても深く考えることなんじゃないかな、という結論に至りました。

働くのは本当に面白くて、わたしは仕事が好きだなあと思うから、だからこそ永続性を保った状態をキープしなくてはいけません。うまくやっていきましょう。

明日で今月も終わりですね。10月はどんな1ヶ月になるのかな。楽しみです。

それでは。

20160928

雨の降ったり止んだりした蒸し暑い日でした。

ランチに親しくしていた後輩女性と出掛けて様々な話をして、笑ったり考え込んだり、いろんな表情の時間を過ごしました。

個人的な話も聞かせてくれて、こうして踏み込んだ関係の作れる相手と出会えたのは喜びだなあ、と思いました。夜は恵比寿で映画を観て、大好きなお店で食事をし、楽しく過ごしました。好きなお店を好きになってもらえるのは、とてもうれしい。

もうすぐ9月も終わりですね。あっという間だな。

それでは。

 

昔のクリスマスの思い出話をします

 その年のクリスマスは一人で過ごすことが決まっていて、かといって家族の元へ帰る気にもなれず、たまにはこんな年もいいかなと思っていたのだけれど、その人がやってくるというので雨の根津で待ち合わせた。場を取り計らってくれた友人の後ろではじらいながら向けてくれた笑顔が愛らしく、わたしはその控えめさをとても好ましく思い、言葉少なな彼女の声を聞き漏らさないよう、必死に耳を傾けた。雄弁ではないが、言葉の隙間から思いがひたひたと湧き出る清水のように溢れている、そういう語り方をする人だった。特になにも目的地を決めていなかったわたしたちは、あてもなくふらふらと古い建物の間を歩き、酒蔵を改装したという店で昼から日本酒を楽しんだ。とりとめもない話をしてまたそぞろ歩きをし、雨に濡れた。彼らはわたしのためにクリスマスプレゼントを用意していてくれて、その中に折り畳み傘があったので、思いのほか止む気配のない雨を避けるため、さっそく広げて使うことにした。わたしは自分の長傘を持って行っていたから、彼女にそれを譲った。恐縮しながらも彼女がその折り畳み傘を一番最初に使ってくれたことが、なぜだかとても嬉しく思えた。時間はゆっくりと過ぎていき、まるで家族旅行のようにくつろいで街並みを楽しんだあと休憩を兼ねて珈琲店に入り、たっぷりと時間をかけて用意される珈琲を、沈黙とともに待った。沈黙は苦痛ではなくただ煙るように漂っていき、その間をくぐって囁くように味の印象を交換した。その静謐さがわたしにとっては新鮮で、日が暮れていくのをとても名残惜しく感じた。さらに場所を変え、賑やかな酒場で酒を交わし、おだやかな気持ちのまま電車に揺られてわたしはひとり自宅へ戻った。寒々しい自宅の灯りをつけると猫がにゃあと出迎えてくれ、ああ、同じ静けさでもこんなにも違うのか、と思いながら暖房をつけた。部屋が暖まり、人心地ついたので渡されたプレゼントの包みをすべて解くと、一通の手紙が入っていた。封を開ける。直接会ったとき、うまく話せないかもしれないから、東京へ向かう電車でこれを書いている、と前置きをした上で、彼女がわたしに会うまで思っていたこと、感じていること、伝えたいと思ってくれていることが丁寧に綴られていた。最後まで読み切る前にこらえきれないほどの涙が溢れ、床に膝をついた。こんなにも真摯で不器用で、こわいほど素直に美しい言葉が綴られた手紙をもらったのは、初めてだった。

 
 繁華街を歩いていたとき、彼女がふと立ち止まって、どこか一点をじっと見つめている瞬間があった。後ろに寄っていき同じ方向をわたしも見つめたが、その何かを発見することはできなかった。彼女の目には、何がどんなふうに見えていたのだろうか。わたしにはきっと見えない何かを見つめる眼差しを通して感じたものが、彼女というフィルターを通って文字として書き記され、手渡されたこの手紙は、世界にただひとつしかないクリスマスプレゼントで、サンタクロースは存在するのだ、と思った。
 確かにあのクリスマスの夜、わたしはひとりであったが、孤独ではなかった。インターネットに乗ったわたしの言葉が届き、それを抱きしめてくれた人が、この世に確かにいるのだ。そういう実感を、なまなましく鮮やかに感じさせてくれた手紙だった。そういうクリスマスの思い出の話です。
 
今日はそんな感じです。
チャオ!