湿気で洋服がべたべたと肌に張り付く。ビーチサンダルのような心もとない靴底のサンダルを履いて、どこかの路地を歩いている。周りは薄暗いが、日暮れのせいなのか、頭上を覆う建物が陽の光を遮っているからなのか、分からない。すれ違う人はみな、白い開襟シャツと綿のズボン、もしくはサッカー生地で作った簡素なワンピース(それが手作りだということをわたしはなぜか知っている)を着ていて、ゴム底でキャンパス地のズックを履き、頬骨が高く、目がぎょろぎょろしている人ばかりだ。わたしは異邦人のようで、すれ違う人たちはそのたび不審そうな顔で、こちらの顔を覗き込んでくる。その割にわたしの服装はカジュアルで、旅行客という感じではない。くるぶしまであるガーゼ素材のスカートに薄いTシャツ、カーディガン、巾着のようなバッグを下げて、どこの目的地へ向かっているのかすら、分からない。観光へ行くぞ!という高揚感もなく、繰り返しの毎日だ……という退屈さもない。中長期滞在中のどこかよその国にいて、何か食べにでも出ようか、とぶらぶらしているところ、いう感じだろうか。行ったことはないが、街の景色は、台湾の九份のようだ、と思う。
狭い建物の隙間を抜けると、海につながっている細い道に出た。コンクリで舗装されてはいるが、かなりでこぼこしており、歩きにくい。向こうから誰かがやってきたら、すれ違うのがやっとだろう。この道の先に、本当に海があるのかどうか、実際に見えているわけではないが、わたしはこの道を抜けると海につながっているということを、知っている。心なしか、潮の匂いがするような気もする。しかし本当に自分がそう思うのか、実感を得ているのかは、正直、定かではない。しかしながら、今この瞬間にはそのことが、そのことだけが事実であり真実のように思えている。とにかく、わたしはそういう道を歩き、どこかへ向かっている。
海まではたどり着かない手前に、屋台村がある。そこはトタンの壁と、簡素な屋根があり、フードコートのように四角く中央の飲食スペースを囲んで、多くの屋台が立てられている。わたしたちはおそらく、その屋台村へ向かっているのだろう、と思う。屋台村ではさほど高くない金額で、少しのお酒と簡単な食事ができ、長居していても、誰も気に留めない。しかし、お酒は瓶のものを選ばないとダメだ、このへんのやつらはコップをちゃんと洗っていない、洗ったとしても、雨水を貯めたポリバケツにコップを突っ込み、ばちゃばちゃと振ってそれで終わりだ。それをこのあいだ見かけてしまったので、オレはもう瓶ビールしか頼まないようにしているんだ。
前を歩く誰かが、わたしに向かって忠告した。その誰かについてはいま、背中しか見えない。それが誰なのかも、わからない。ただ、彼が身に着けているものが、どこのブランドの商品なのか、わたしはぜんぶ知っているようだった。KEENのウォーターシューズ、KAVUのキャップ、Karrimorの小型のバックパック。誰だか素性の知らない彼は、アウトドアに親しみ旅慣れているような服装と足取りで、わたしの前を歩いている。わたしは彼と一緒に出かけてきたのだろうか? だとしたら、この人は、いったい誰だ?
怖くなり、ポケットを探る。スマートフォンを取り出して恋人に連絡をしようとするが、スマートフォンは表面のガラスにヒビが入り、裏面も基盤が露出するほど破損していて、画面が点灯しない。急に恐怖に襲われ、助けを求めて、叫びそうになる。恐ろしくて振り返れないし、このままこの男について進むべきではない、と、脳内で警鐘が鳴っている。周りには生温かく湿った風が吹いている。前を歩く男の足元で踏みしめられた小石の音が、わたしの耳のすぐそばで鳴っているように、とても大きく聞こえる。
目が覚めると、隣で恋人が寝返りを打っていた。ベッドの中での定位置を決めかねるように、もぞもぞと動きながら申し訳なさそうに寝返りを打ち、同時に小さく謝罪の言葉を繰り返している。どうやらなかなか寝付けずにいて、自分の寝返りでわたしが目を覚ましたのだと勘違いし、申し訳なく思っているらしい。ごめんね、まだ眠いのに、起こしちゃって、と言う恋人の髪を撫でて、夢から覚めたことに安堵する。彼は寝ぼけているらしく、「夢を見たよ、君がいなくなるんだ、でも君がいなくなったら、俺はきっともうだめになるんだ」と呟いている。そんなことはないよ、と声をかけ、静かに目をつぶる。
「そんなこと」が何を指すのか、その「そんなこと」は、わたしがいなくなることを指すのか、わたしがいなくなることにより彼がだめになることを指すのか、今となっては記憶があやふやで、わからない。が、とにかくその時のわたしが、そんなことは、ありえない、と思っていたのは確かだ。
部屋は寒かったが、ベッドの中は暖かった。カーテンの向こう側が薄く明るくなっていくのを眺めながら、わたしは安心して、もう一度、眠りについた。