久しぶり会っての第一声が「眼鏡がない!」っていうのは、どうなの、と言われたのは表参道のカフェだった。あたらしい仕事の話も含めて、会って話そうと待ち合わせた午後で、きっかけはFacebookだった。
わたしは彼のパーツをよく覚えていた。
黒縁眼鏡のつるはし、Tシャツに書かれた英単語、ブレスレットの金具のかたち。
何年ぶりか思い出せないほど久しぶりに会った彼からは、それらはすべて消えていて、コーヒーを待つ間に自分が誰と待ち合わせたのだったか、見失ってしまいそうだった。
話す内容もお互い様変わりしていた。周りに対して文句や不満が多かったあの頃とは違って、ある程度の諦めと、目先ではなく未来を見て逆算する考え方を身につけていた。やるしかないから、と言いながら、たくさんの問題を黙々と処理する世代になってしまったのだろう。
大人になったねえ、とありがちな枕詞をはさみながら、わたしたちは旺盛に話した。
まっさらな気持ちで相対した彼は立派なビジネスマンで、関わっている仕事の話、最近興味があること、学んでいること、いろんなことを聞いた。
懐かしい声を聞きながら、見覚えのあるパーツを探し続けた。
黒縁眼鏡のつるはし、Tシャツに書かれた英単語、ブレスレットの金具のかたち。
声に聞き覚えはあるのに、それらのパーツはどこを探しても見当たらなくて、ああそうか、思っているよりたくさん時間が過ぎたんだ、ということを実感した。そしてわたしが好もしく思っていたパーツはすべて取り替えが効くもので、ずっとそこにあるものではなかったのだということも。
相談事にある程度の目鼻がついて、会計を待つテーブルで、机の上に置いたわたしの手の指輪を、彼がとんと叩いた。「昔は、そんな指輪してなかったのにね」
右手の中指と薬指にはめた指輪。指輪をしない時期があった。
その頃、好きだった人が、「アクセサリーをつけている女は苦手だ」と言ったからだった。
今は違う。身につけたいものを付けて、嫌いなものを我慢することもない。
何かを身に付けるとき、誰かに言い訳をすることもなくなった。
彼氏がくれたから、もらいものだから、ではなく、ただわたしが付けたいから。
わたしは手のひらを掲げて、「かわいいでしょう、この指輪」と言った。
店を出て地下鉄に向かった。
彼の隣に並んで立ったとき、パッ、と視界がカラーになった。
見覚えのある八重歯と、エラのすぐそばにあるほくろ。
知っているパーツがそこにはあった。
取り替えが効くもの、効かないもの。
その両方でわたしたちは構成されていて、きっとわたしも捨ててしまった好もしいパーツがたくさんあるのだろう。そうやって「好き」を取り替え続け、変えられないものに自分でたまに飽きたりしながら、ずっと生きていくんだと思った。
あの黒縁眼鏡が好きだったよ、と言って改札で別れた。
彼は何も言わなかったし、わたしは指輪を今もつけている。