これから誰にもしたことのない話をしますね、こんな前置きをすると、なんだかめんどくさい話のように感じるかもしれないんですが、お金を貸してくれとか命を狙われているとかではなく、人前でおおっぴらにしないことが多いタイプの話題だからという理由なので、そこは安心してください、それで、何について話そうとしているのかというと、そのきっかけになる「星を吸う水」という小説のことを先に話したほうがいいので話すんですけれど、このあいだ薦められて「星を吸う水」という小説を読んだんですね、作者は村田沙耶香さん、先日、芥川賞を受賞した「コンビニ人間」という作品が話題になっていて、わたしはそういう話題作とかをつい避けてしまう意固地な性格なので、受賞作は話題が落ち着くまで読まないでいようと思っていたんですが、信頼できる人がその作家さんをとても好きだというので、じゃあ他の作品からなら読んでみようかな、くらいの感じで読んだんです、単純ですよね、それで、読んでみたらものすごく驚いてしまって、これ、わたしのことだ、と思ったんですよ、それは別にわたしが「星を吸う水」の主人公である「鶴子」のように、主にセックスだけする相手を持っているとか性欲が強いとかそういう状況的なものではなくて、彼女が抱えているモヤモヤについて、ああ、わたしも同じだ、と思えたんです、たとえば、セックスのために「恋人としての儀式」を執り行わなければいけないことへの違和感だとか、自分と今の恋人のここちよい関係を友人から「それはあんたが都合のいい女扱いされているのだ」と断じられて首肯しかねるところだとか、「自分を高く売らなければいけない」と焦る女友達への言葉を飲み込んでしまうところだとか、ああそれ、思ったことある、わかる、という部分が、驚くほどたくさんあったんです、それで、あ、ちょっと話がそれちゃうんですけど、聞いていいですか、自分の身体は商品ではない、取り引きの対象ではない、と思ったこと、ありませんか? 特に自分が女の肉体を持っていると、お互いが同意の上で至った性交渉でも、男性が「やった」側、女性が「やられた」側になってしまうというか、「付き合うまではやらせないほうがいい」みたいに、自分の肉体を何らかのプライズとして扱うことを推奨されたりだとか、そういうのありませんか、それ、昔からまったく意味がわからない、と思っていたんです、わたしがわたしの肉体を使って何をして何をしないかは、わたしが決めるのに、勝手にかわいそがられたりとか、あの、あまり使わない言葉を思い切って言いますけど、いわゆる「ただまん」という単語がありますよね、で、わたしが誰とやろうかどうでもいい話なのに、そういう話を聞きつけて「え、あの人と、やったの?」とニヤニヤ聞いてくる人がいます、さらに関係が続かなかったとき「やり捨てられたんだ、かわいそう」「”ただまん”されただけじゃん」みたいに、勝手に見下してくる人がいるんですよ、あれ、なんなんですかね、自分に言われたんでなくても、そういう風潮にムカついていて、性交渉なんてお互いの気持ちとテンションとタイミングが合ったからした、合わなかったからその後はしなかった、ただそれだけのこと、なのに、いろんな理由や原因といった付随物を後からつけて、上に置いたり下におろしたり、それってあなたの基準でしょう、そもそもやったくらいで関係性なんて変わるとは限らないでしょ、バカじゃないの、と、思わないこともないんですけれども、でもそれってその人が性交渉を通じた関係性の発露をそういうパワーバランスの発生と同義にしているということなのかな、とも思うし、だったら、その価値観についてわたしがどうこう言うものでもないかなと思って、黙っていたんです、でもまあ正直クッソむかつくわ、人は人じゃん、わたしがどうしようと勝手じゃん、と思うこともあったんですけれど、「星が吸う水」の主人公「鶴子」は、そういう感覚、自分の性は商品ではない、というのを、自分の中でしっかりと持っていて、性欲を煩わしいとも思いながら、夢中になって楽しむこともできてる、それを読んで、ああ、わかる、と思って、わたしもわたしの性欲が煩わしいときもあるけどそんなに嫌いじゃないし、どんなことで自分が欲情するのか、どこが自分の欲望のスイッチなのかを探すのが、好きなんです、与えられた機能なら、なるべく上手に使ってフルで満喫したいと思っているというか、あ、この部分が、「今まで誰にもしたことがなかった話」なんですけど、あんまり、たいしたことなかったですね、まあいいか、で、話を戻すと、他人と性欲の話なんて、笑い話として消費する以外で、そんなに表立ってしないじゃないですか、するのかな、少なくともわたしはしてこなかったんですよ、うちは両親が厳しかったほうなので「そういうのよくわかりません」みたいな顔をして生きてきたつもりだったんですが、でもずっとそれを自分の中で思っていたのも事実で、みんなはどうしてるんだろう、どうやって探しているんだろう、どんなスイッチを持っているんだろうってずっと知りたいと思っていたので、この小説で主人公の「鶴子」が、自分の性欲の存在と自分の欲望のスイッチを把握して肯定していて、なんとかうまく付き合って、日常に織り込もうとしているのを、とても好ましく思いました、それと同時に、「鶴子」の友人でもある「梓」と「志保」も、それぞれの価値観を持っていて、わたしには理解できない、共感できない部分があるけれど、作者はそれを否定的に描いていなくて、ただ、つらそうだなあ、という感想の提示でとどめているところに、また共感と好感をおぼえたんです、普段、生活していて、女性の生き方についてとか、「べき姿」についてのテンプレートの提示って、めちゃくちゃあるじゃないですか、わたしも今までもう腐るほど見てきて、100%しっくりくるものはなかったし、たぶんこれから先、一生しっくりくるものになんて出会えるわけがなくて、自分で作っていくしかないんだろうなと思ったし、作ってきたつもりだし、これからも作っていこうね、というのをずっと言ってきてるんですけど、それって恋人とはこういうものである、男とのセックスとはこういうものである、女の性欲とはこういうものである、みたいな、性欲とかセックスとかでも、同じなんだなと思ったら、なあんだ、じゃあこのやりかたでいいじゃん、働き方や生き方と同じで、わたしはわたしのやりかたを探して、スイッチを見つけて、仕様を把握して、それを自分の生活に、人生に上手に織り込んで生きていければ、誰に何を言われようと、どうだっていいんじゃん、と思えて、飛び上がるほどうれしくなったんです、それで、あ、もうすぐこの話、終わりますので、あと少し、辛抱してくださいね、それでですね、作品の後半、それぞれがばらばらの仕様をもつ「鶴子」「梓」「志保」が温泉旅行に出かけて、その道中で語られる地球の話や、ラストシーンは正直唐突すぎるような気がして、少し面食らいました、でもそれはわたし自身が何らかの「物語のテンプレート」を持ったまま、この作品を読んでいたんだなというのを自覚させてくれた展開で、あーあ、わたしもまだまだだな、と思いました、だって、さっきまでギーギーガーガー憤って「テンプレートなんてない!わたしをラベリングするな!」と言っていたくせに、自分だって同じことしてるじゃん、他者にテンプレート当てはめマンじゃん、と自覚したら、また嬉しくなりました、わたしは誰か他人や、何かの作品に触れて、打ちのめされたい、自分の価値観や自信をぶち壊されたいんです、なんでかっていうとそれが気持ちいいからで、なにも持ちたくないんですよ、執着しちゃうから、だったらめちゃくちゃにされて、自分なんてたいしたことがない、くだらないものしか持ってないし、どうでもいい存在なんだと思い知りたいんです、打ちのめされて、轢死した猫の死体のようにぐちゃぐちゃのどろどろに引き伸ばされて、そこからまた新しい自分を塑像したい、だからぐちゃぐちゃのどろどろに引き伸ばされたわたしを、クッキー生地みたいに型にはめて、きれいな形になるよう押し込まないでくれ、型からはみ出たわたしを、切り捨てないでくれ、と強く強く強く思っているし、そうやってこれからもどろどろして、必死こいて生きていくんだと思いました、これでこの話は終わりです、長々とすみません、でも話せてよかったです、ありがとう、あ、「星が吸う水」の文庫本には、もう1作「ガマズミ航海」というのが収録されていて、こちらも揺さぶられ方がすごかったんですが、今日は疲れてしまったので、触れません、興味がわいたらあなたもぜひ読んでください、感じるものがあったら、わたしにこっそりメールをください、なければ何もしなくていいです、もちろん読まなくたってぜんぜん、いいんです。
iPhoneで一気に書いたら疲れました、以上です。
今日はそんな感じです。
チャオ!