インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

20160916

朝、出勤前に道に迷ったマダムを案内したり、ランチに一緒に出た同僚から思わぬ不満や悩みを打ち明けてもらったり、なんとなくそんな日でした。

その同僚のサポートに急遽入ることにして、彼女が抱えていた残タスクをもりもりやっつけていたらとてもいい笑顔になってくのが見えて(彼女はわたしの目の前の席に座っているので)ああ、よかったな、と思いました。抱えているのが一番よくない。ヘルプサインを出してもらえてよかったです。

 

夜は表参道へ。少し、いや、かなり緊張しましたが、楽しみな企画のお話を。興奮さめやらぬまま帰宅して、長風呂しながらおすすめしてもらった小林秀雄を読んで、また違う部分で興奮しました。 

モオツァルト・無常という事

モオツァルト・無常という事

 

最近、自分がどんどん塗り替えられていく感じがして、とても気持ちいいです。

三連休ですね。お天気がもつとよいのですが。

それでは。

20160915

すっかり秋ですねー。

夜は久しぶりの神楽坂。何度か仕事や会食で来た程度で、馴染みはなかったのですが、地元の人のアテンドでおいしいお店に連れて行ってもらいました。お店の個性や店員さんのキャラクターなど、観察していて飽きないのが楽しかった。二軒目はひやおろしをお手頃に飲ませてくれる素敵なお店で、神楽坂が好きになりました。楽しかった!

明日はもう金曜日です。

よき週末をお迎えくださいね。

それでは。

村田沙耶香「星が吸う水」感想文

これから誰にもしたことのない話をしますね、こんな前置きをすると、なんだかめんどくさい話のように感じるかもしれないんですが、お金を貸してくれとか命を狙われているとかではなく、人前でおおっぴらにしないことが多いタイプの話題だからという理由なので、そこは安心してください、それで、何について話そうとしているのかというと、そのきっかけになる「星を吸う水」という小説のことを先に話したほうがいいので話すんですけれど、このあいだ薦められて「星を吸う水」という小説を読んだんですね、作者は村田沙耶香さん、先日、芥川賞を受賞した「コンビニ人間」という作品が話題になっていて、わたしはそういう話題作とかをつい避けてしまう意固地な性格なので、受賞作は話題が落ち着くまで読まないでいようと思っていたんですが、信頼できる人がその作家さんをとても好きだというので、じゃあ他の作品からなら読んでみようかな、くらいの感じで読んだんです、単純ですよね、それで、読んでみたらものすごく驚いてしまって、これ、わたしのことだ、と思ったんですよ、それは別にわたしが「星を吸う水」の主人公である「鶴子」のように、主にセックスだけする相手を持っているとか性欲が強いとかそういう状況的なものではなくて、彼女が抱えているモヤモヤについて、ああ、わたしも同じだ、と思えたんです、たとえば、セックスのために「恋人としての儀式」を執り行わなければいけないことへの違和感だとか、自分と今の恋人のここちよい関係を友人から「それはあんたが都合のいい女扱いされているのだ」と断じられて首肯しかねるところだとか、「自分を高く売らなければいけない」と焦る女友達への言葉を飲み込んでしまうところだとか、ああそれ、思ったことある、わかる、という部分が、驚くほどたくさんあったんです、それで、あ、ちょっと話がそれちゃうんですけど、聞いていいですか、自分の身体は商品ではない、取り引きの対象ではない、と思ったこと、ありませんか? 特に自分が女の肉体を持っていると、お互いが同意の上で至った性交渉でも、男性が「やった」側、女性が「やられた」側になってしまうというか、「付き合うまではやらせないほうがいい」みたいに、自分の肉体を何らかのプライズとして扱うことを推奨されたりだとか、そういうのありませんか、それ、昔からまったく意味がわからない、と思っていたんです、わたしがわたしの肉体を使って何をして何をしないかは、わたしが決めるのに、勝手にかわいそがられたりとか、あの、あまり使わない言葉を思い切って言いますけど、いわゆる「ただまん」という単語がありますよね、で、わたしが誰とやろうかどうでもいい話なのに、そういう話を聞きつけて「え、あの人と、やったの?」とニヤニヤ聞いてくる人がいます、さらに関係が続かなかったとき「やり捨てられたんだ、かわいそう」「”ただまん”されただけじゃん」みたいに、勝手に見下してくる人がいるんですよ、あれ、なんなんですかね、自分に言われたんでなくても、そういう風潮にムカついていて、性交渉なんてお互いの気持ちとテンションとタイミングが合ったからした、合わなかったからその後はしなかった、ただそれだけのこと、なのに、いろんな理由や原因といった付随物を後からつけて、上に置いたり下におろしたり、それってあなたの基準でしょう、そもそもやったくらいで関係性なんて変わるとは限らないでしょ、バカじゃないの、と、思わないこともないんですけれども、でもそれってその人が性交渉を通じた関係性の発露をそういうパワーバランスの発生と同義にしているということなのかな、とも思うし、だったら、その価値観についてわたしがどうこう言うものでもないかなと思って、黙っていたんです、でもまあ正直クッソむかつくわ、人は人じゃん、わたしがどうしようと勝手じゃん、と思うこともあったんですけれど、「星が吸う水」の主人公「鶴子」は、そういう感覚、自分の性は商品ではない、というのを、自分の中でしっかりと持っていて、性欲を煩わしいとも思いながら、夢中になって楽しむこともできてる、それを読んで、ああ、わかる、と思って、わたしもわたしの性欲が煩わしいときもあるけどそんなに嫌いじゃないし、どんなことで自分が欲情するのか、どこが自分の欲望のスイッチなのかを探すのが、好きなんです、与えられた機能なら、なるべく上手に使ってフルで満喫したいと思っているというか、あ、この部分が、「今まで誰にもしたことがなかった話」なんですけど、あんまり、たいしたことなかったですね、まあいいか、で、話を戻すと、他人と性欲の話なんて、笑い話として消費する以外で、そんなに表立ってしないじゃないですか、するのかな、少なくともわたしはしてこなかったんですよ、うちは両親が厳しかったほうなので「そういうのよくわかりません」みたいな顔をして生きてきたつもりだったんですが、でもずっとそれを自分の中で思っていたのも事実で、みんなはどうしてるんだろう、どうやって探しているんだろう、どんなスイッチを持っているんだろうってずっと知りたいと思っていたので、この小説で主人公の「鶴子」が、自分の性欲の存在と自分の欲望のスイッチを把握して肯定していて、なんとかうまく付き合って、日常に織り込もうとしているのを、とても好ましく思いました、それと同時に、「鶴子」の友人でもある「梓」と「志保」も、それぞれの価値観を持っていて、わたしには理解できない、共感できない部分があるけれど、作者はそれを否定的に描いていなくて、ただ、つらそうだなあ、という感想の提示でとどめているところに、また共感と好感をおぼえたんです、普段、生活していて、女性の生き方についてとか、「べき姿」についてのテンプレートの提示って、めちゃくちゃあるじゃないですか、わたしも今までもう腐るほど見てきて、100%しっくりくるものはなかったし、たぶんこれから先、一生しっくりくるものになんて出会えるわけがなくて、自分で作っていくしかないんだろうなと思ったし、作ってきたつもりだし、これからも作っていこうね、というのをずっと言ってきてるんですけど、それって恋人とはこういうものである、男とのセックスとはこういうものである、女の性欲とはこういうものである、みたいな、性欲とかセックスとかでも、同じなんだなと思ったら、なあんだ、じゃあこのやりかたでいいじゃん、働き方や生き方と同じで、わたしはわたしのやりかたを探して、スイッチを見つけて、仕様を把握して、それを自分の生活に、人生に上手に織り込んで生きていければ、誰に何を言われようと、どうだっていいんじゃん、と思えて、飛び上がるほどうれしくなったんです、それで、あ、もうすぐこの話、終わりますので、あと少し、辛抱してくださいね、それでですね、作品の後半、それぞれがばらばらの仕様をもつ「鶴子」「梓」「志保」が温泉旅行に出かけて、その道中で語られる地球の話や、ラストシーンは正直唐突すぎるような気がして、少し面食らいました、でもそれはわたし自身が何らかの「物語のテンプレート」を持ったまま、この作品を読んでいたんだなというのを自覚させてくれた展開で、あーあ、わたしもまだまだだな、と思いました、だって、さっきまでギーギーガーガー憤って「テンプレートなんてない!わたしをラベリングするな!」と言っていたくせに、自分だって同じことしてるじゃん、他者にテンプレート当てはめマンじゃん、と自覚したら、また嬉しくなりました、わたしは誰か他人や、何かの作品に触れて、打ちのめされたい、自分の価値観や自信をぶち壊されたいんです、なんでかっていうとそれが気持ちいいからで、なにも持ちたくないんですよ、執着しちゃうから、だったらめちゃくちゃにされて、自分なんてたいしたことがない、くだらないものしか持ってないし、どうでもいい存在なんだと思い知りたいんです、打ちのめされて、轢死した猫の死体のようにぐちゃぐちゃのどろどろに引き伸ばされて、そこからまた新しい自分を塑像したい、だからぐちゃぐちゃのどろどろに引き伸ばされたわたしを、クッキー生地みたいに型にはめて、きれいな形になるよう押し込まないでくれ、型からはみ出たわたしを、切り捨てないでくれ、と強く強く強く思っているし、そうやってこれからもどろどろして、必死こいて生きていくんだと思いました、これでこの話は終わりです、長々とすみません、でも話せてよかったです、ありがとう、あ、「星が吸う水」の文庫本には、もう1作「ガマズミ航海」というのが収録されていて、こちらも揺さぶられ方がすごかったんですが、今日は疲れてしまったので、触れません、興味がわいたらあなたもぜひ読んでください、感じるものがあったら、わたしにこっそりメールをください、なければ何もしなくていいです、もちろん読まなくたってぜんぜん、いいんです。

星が吸う水 (講談社文庫)

星が吸う水 (講談社文庫)

 

iPhoneで一気に書いたら疲れました、以上です。
今日はそんな感じです。
チャオ!

20160914

涼しい日でした。

サイボウズ式コラム、公開されてます!

新人の感じる「無力感」は「思い込み」。目の前にある仕事をひとつひとつこなそう | サイボウズ式

わたしも未だに無力感にぶつかるときがあります。なかなかにしんどいものですが、そういうときほど、足元を見て一歩ずつ進むようにしています。

マラソンに挑戦していたとき、トレーナーの方から「マラソンは一歩ずつ足を前に踏み出せば必ずゴールにたどり着きます」と言われて、とても勇気をもらったことを思い出します。つまりはそういうことなのだと思います。

それでは。

20160913

打ち合わせが続いた日でした。

なんかもう大人なので、どんなことが起きても冷静に対処してきたつもりでしたが、久しぶりに声を荒げそうになり必死で押さえたやりとりでした。起きたことは仕方がないし、誰のせいでもない、過去の犯人探しより未来をどうしたらよくできるかだけをしっかり見ていかなければ、と改めて思います。

夜は歌舞伎町で、楽しい夜でした。

その帰り、ある人とふとしたきっかけから踏み込んだ話をする機会があり、お友達が増えました。どんなことがあってもきっと大丈夫、わたしはいつでもここにいます。

それでは。

20160912

秋ですね〜。

朝晩はすっかり涼しくなりました。

 

業務を引き継いだ新しい担当とお客様のあいだに行き違いがあったようで、前任者であったわたしの携帯にお怒りの電話があり、久しぶりに肝を冷やしました。男性が怒っている声、というのは、本能的に怖さを感じますね。もろもろ事なきを得たので結果オーライですが、いやはや。

おもしろいよ、と聞いていた村田沙耶香さんの著書を初めて手に取りました。なぜ「コンビニ人間」ではないのだ、というところですが、なんとなくです……今夜はこれを読んで寝ようと思います。 

授乳 (講談社文庫)

授乳 (講談社文庫)

 

それでは。

 

言葉になる前の世界

 タイトルは入江陽さんの「わがまま」の歌詞から。


入江陽 - わがまま

 今回は創作じゃないので先に宣言しておきます。わたしの「はせおやさい」という名前?ペンネーム?ハンドルネーム?を付けてくれた昔の恋人の話です。この呼び方はわたしが考えたものではなく、ある日わたしが自分のMacからウェブメールにログインしようとして「hase0831」と入力したのを見た彼が「お前のID、0831、って、”おやさい”って読めるじゃん、かわいいな」と言ってくれたのが「はせおやさい」のきっかけでした。

いきさつは忘れたけれど、彼との思い出について話をする機会があって、そしたらいろんなことを思い出してしまって、ストロボライトのようにフラッシュバックしてとても気持ちがいいので、それを忘れないうちに書こうと思います。なので面白いかとかは二の次にして、一気に書きます。

 

 彼はアルバイト先の同僚で、スケボーが好きで、音楽が好きで、細身の濃いデニムにスケートシューズ、やや大きめのTシャツに大きなリュックを背負った、痩せ型で背が高くて顔が小さくて色白でくせ毛で華奢な首を持つ、暇さえあれば、よく寝ている人でした。彼ともう1人の男友達と、3人でよくつるんで遊んでいました。3人でチームを組んでデザインフェスタに出店したり、見よう見まねでキャバレーの跡地を借りて、バンドを入れたオールナイトのパーティをやったり、やってみたいと思ったことは、全部やりました。プログラムが書ける友人と、デザインができる彼と、とにかく人を連れて来て企画を推進するのが得意なわたしの3人で、バランスが良かったせいもありました。

深夜のファミレスでグダグダしたり、原付と車で集合して、夜通し遊んでいましたが、ツルッと転んでしまったように彼とわたしが恋人になりました。とはいえ、3人の関係は変わらず、本当にいろんなことを試しては、たくさん失敗しました。

彼とは名目上、恋人となりましたが、感覚的には一番の親友であり、音楽も文学も映画も、なんでも一緒に共有しました。わたしは彼の価値観が、センスが、その嗅覚がとても好きで、憧れでした。悪友のように良い面も悪い面も見せあって、悪いこともたくさんして遊びました。

ただ、20代前半の幼い恋愛だったせいか、相手との距離感の取り方はひどいもので、お互いがお互いに深い傷をつけ、血が溢れるその傷をこすり合わせて癒着させようとしているような、それぞれが別の肉体を持っていることをいつも腹立たしく感じているような、めちゃくちゃなやり方でした。

喜怒哀楽も、愛も憎悪も、ぜんぶが詰まった鮮烈な恋でした。

でも、いま振り返ってみると、あれは本当に恋だったんだろうか、あれは恋と呼んでよかったのだろうかと分からなくなります。大切にしあっていたつもりでしたが、本当に横暴で身勝手でわがままをぶつけあった関係で、恋とか愛という単語から連想される、甘やかで優しい時間は、数えるほどしか記憶にありません。でも絶対に、彼としか作ることができなかった関係でした。

あの頃、まだ何者でもなかったわたしと、何者かになりたかった彼が、好奇心の赴くままにムチャクチャをした時間と経験がなければ、今のわたしはないだろうと思います。好きだと思うもの、これだと思うものを見つけたら最短距離でまっすぐに向かっていって、両手でしっかりつかみとる今のやり方も、彼が教えてくれました。自分の中に激烈な「女」がいるというのを教えてくれたのも、彼でした。今、あそこまで強烈に自分の中の「女」を感じることは、もうありません。彼との関係が終わったとき、自分のそういった部分も死んだような気がします。

当たり前のように結婚する予定でしたが、わたしが逃げました。心底優しくてのんびり屋で、少しとぼけているけれど、ドラムを叩くのがとても上手な新しい恋人ができたからです。突然すぎる心変わりに、刺されたり殴られたりすることも覚悟しましたが、そんなことは起きず、わたしと彼の関係はぶっつりと終わりました。

 

 その人は今どうしているの、と聞かれて、思わず「たぶん死んでるんじゃない」と口にしました。外国で会社を作ったらしい、という話は聞いていました。プール付き、メイド付きの戸建てに住んで、移動は全部タクシーが当たり前の生活で、マジでもう日本に帰る気がおきないわ、と笑っていたのを知っていました。そうやって調子に乗った彼が、海外でめちゃくちゃに仕事をし荒稼ぎしまくって、トラブルに巻き込まれ、うっかり死んでいたら面白いなあ、と思えたのです。それが一番彼らしく、しっくりくるなあ、と思いました。

 

そんなふうに彼の死を思うなんて、やっぱり本当は恋じゃなかったのかもしれませんね。ただ、くっきりと深い何かをわたしの中に残していった、鮮やかな時間だったことに間違いはありません。そのことを、なぜ最近までぼんやりと忘れていたのか自分でも不思議なのですが、こうして思い出せたのは喜ばしいことなのだろうと、書き残すことにしました。

 

急に思い出すって、ちょっと怖いですね。本当に死んでるんじゃないかしら……。それでは推敲なしで、このまま公開します。

 

今日はそんな感じです。
チャオ!