インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

さよなら平成

平成が終わる

 平成はまるっとわたしの人生の中に入っている。昭和に生まれ、平成に子どもを産み、令和を迎えようとしている。3つの元号を生きるとは思わなかった。亡くなった祖父は明治生まれで、明治、大正、昭和を生き抜いて、じいちゃんはすごいなあ、と思っていたけど、その祖父と同じ状態になるとは。

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 昭和64年、昭和天皇崩御の発表があったときわたしは小学生で、お正月明けて間もない1月、テレビや新聞の騒ぎ方から、何かすごいことが起きたのだという程度にしか理解していなかった。覚えているのは頻繁に流れるニュース速報で、誰かの命が失われていく様子をこんな小刻みに見ることがあるのだろうかという、不可思議な気持ちだった。そしてやってきた平成とともに、わたしは10〜30代を過ごすことになる。

甘えるのを諦めた10代

 10代のわたしはとにかく「扱いにくい子」だ、と父親によく言われていた。2歳離れた妹は朗らかで明るく人当たりもいいのに、なぜお前はそんな頑固で聞き分けがないのだ、と比べて嘆かれた。自分でも自分の気難しさはわかってはいたが、どうしようもなかった。小学校の高学年にあがるころ、母親が入院がちになり、クラブ活動を辞めて放課後は家事をすることになった。当時は妹とあまり仲が良くなかったが、長女の責任感で、彼女に家事を負担させることはできないと思っていた。

今でも妹は「わたしはお姉ちゃんに育てられたから」と言ってくれるが、実際のところ、大した働きはしていなかったと思う。しかし心構えだけは一人前で、母親の代わりに家庭を支えるのだ、という自負が強かった。早々に子供らしさを捨て、親に甘えることを諦めた。甘え方もよくわからないうちに誰かに甘えるのを諦めてしまったことが、後のわたしの生き辛さにつながったのかもしれない。

ともあれわたしの10代はほとんど母親に振り回されてきた。まだ存命だが母親と喧嘩する夢を今でもよく見るし、母親のようになりたくない、という気持ちで仕事や生き方を選んできたような気がする。

働きまくった20代

 そして20代、とにかく働いた。20代をずっと仕事に捧げた、というと語弊があり、実は20代前半まで、わたしは「早く結婚してお嫁さんになりたい」と思っていたのだった。ちぐはぐなのだが、母親のようになりたくない、と思いながら、父親に庇護され愛されている母親を、うらやましいと思っていた。わたしも誰かの最愛の人として守られたかった。付き合う人は全員「結婚を前提」としていた。気難しい人、優しい人、個性はバラバラだったが、みないい人で、いい男だった。

20代半ばまでで2回、婚約破棄をした。2回めの婚約をやめたのは、会社員兼バンドマンだった相手が「もう少し音楽をやりたいから、結婚を待ってほしい」という理由だった。婚約したあと、やっぱりもう少しバンドを本気でやりたい、諦めがついたら結婚しよう、と言われたとき、いいよ、待ってる、と返したものの、相手と結婚したい気持ちがスッと冷めたのがわかった。婚約者としてしばらく付き合い続けたが、結局、婚約を取りやめてもらった。理由をなんと伝えたかはもう覚えていない。ともあれ「もう無理だから」と言って双方の親を困らせた。相手方のご両親から「結納金を返してほしい」と言われ、いただいたのし袋そのままと引き換えに、元婚約者から受け取りのサインをもらったとき、もう結婚は無理かなと思った。

 そして20代半ばから、逃げるように仕事へ没頭することになる。それまで大したキャリアもなくフラフラとしていたので、派遣社員として当時急成長していたIT企業に潜り込み、すぐに社員登用の話をもらった。正社員になってからはITバブルの勢いもあり、働くのが本当に楽しかった。

いつも深夜まで残業していたし、金曜の夜は翌朝まで働くぞ!と言って夕飯をみんなで食べに行って大騒ぎした。職場の床で寝たこともあるし、誕生日も職場で3度迎えた。誕生日の夜、同じチームの仲間が会社近くの王将に連れて行ってくれ、「好きなものなんでも頼んでいいぞ!」とおごってくれた。10代以上に、青春だったと思う。自分で考え企画して提案したアイデアが採用されるのが楽しかったし、1億円以上の受注を自分の手で決めたときは、震えるほど嬉しかった。このころ出会った友人たちとは、今でも仲がいい。

結婚、離婚、破れかぶれの30代

 30代を迎え、友人の結婚式にもあらかた出席してみると、だんだん「やっぱり結婚してみようかな」と思うようになった。ならばといわゆる「婚活」を始めて、親の紹介で見合いもしたし、婚活パーティにも参加した。見合いも婚活パーティも実りはなかったが、「自分はこういう人と結婚したいんだな」という譲れない条件を洗い出すのには、非常に有効だったと思う。そうして周囲にも「婚活してるんですよ」と言って回っていたおかげか、最初の結婚ができた。

取り持ってくれたのは、近所の飲み屋のマスターだ。この結婚についてはブログで何度も書いているので割愛するが、元夫との生活は子ども時代をやり直させてもらうような、育て直しをしてもらうような結婚だった。相手からたくさんもらってばかりで、わたしからなにか与えられたのだろうかと未だに思う。残念な結果にはなったが、結婚を決めたことを後悔はしていないし、元夫のような人に出会えて、選んでもらえたことを今でも誇りに思う。

 40代を目前にして、ふたたび一人に戻り、残りの人生はもう「おまけ」だなと思った。仕事があったのが何よりありがたかった。経済的な自由は精神の自由を担保してくれる。また必死で働く日々に戻った。そこでもよき仲間に恵まれ、青春の日々を送った。会社帰りによく飲みに行き、社会をどうしていきたいか、どんなことを実現したいかをよく語り合った。チームの仲間で車を借りて、仕事帰りに温泉旅行もした。年齢層はバラバラだったが、みな夢があり、仕事が好きで、何よりいいやつらばかりだった。

しかし、仕事は充実していたが、どうしようもない寂しさに襲われることも多かった。楽しい日々の中でも、その思いは消えなかった。気難しい性格で、離婚歴があり、40代が目の前だ。とにかく「今日を生きよう」と思った。今日を生き、生きつないでいけば、場当たり的でもどこかへたどり着けるかもしれないと思った。人と出会い、酒を飲み、めちゃくちゃに遊んだ。その生活の中で知り合ったのが、今の夫だった。

再婚、出産、長生きしたい40代

 一回りも年齢が下の男性を恋愛対象として見るアラフォーは、割合少ないのではないかと思う。自信がないというより、鼻から相手はこちらを対象外としているだろうから、変な気を起こすと怖がらせてしまうだろう、と自制するからだ。わたしも最初はそうだった。出会って半年ほどはただの遊び仲間として過ごしたが、あるとき夫はわたしをちゃんと「女性」として扱っていることを知り、関係が変化していった。

お互いそれなりに葛藤はあったような気がするが、それ以上に一緒にいる楽しさが上回った。夜、眠る前に毎晩電話をしても、話が尽きることがなかった。ああ、この人といると楽しいな、素の自分でいられるな、と思ったらスルスルッと付き合いが始まり、当たり前のように結婚の話になって、子どもができ、今に至る。

 再婚して子どもがいる人生を歩むことになるとは思っていなかったので、非常に焦りもある。なぜならこちとら「おまけの人生」と破れかぶれになっていたのだ。離婚したあとは、何も将来のことを考えていなかった。なんなら40代のうちに死にたいと思っていたくらいだ。ところがどっこい、急に死ぬわけにはいかなくなった。というか少なくとも残り20年、娘が成人するまでは、なんとしてでも生きたい、と思うようになった。

人生ってどうなるか、本当にわからない。あんなに死にたくて、もう自分という人間から逃げたかったのに、そんなことを考えている暇がなくなってしまった。自分から産まれた娘は心底可愛く、自分を選んでくれた夫は本当に愛おしい。出産という経験もめちゃくちゃ面白かったし、夫婦というパートナーシップを作っていくのが、あらためて楽しい。死にたがっている場合じゃねえ、と思うようになった。

さよなら平成

 こうして七転八倒、七転び八起きの平成が終わろうとしている。なんだかでこぼこで、みっともないことだらけの人生だと思う。もっとスムーズに、凹凸なく安定して穏やかな生き方をする人もいるだろう。そういう人をうらやましくも思うが、自分の人生もこれはこれで面白いからいいか、と思っている。平成の終わりに痛感しているのは、「惨めでも格好悪くても、生きてさえいればなんか面白くなってくる」ということだ。結果オーライだからそんなことが言えるのかもしれないし、これから先の人生だって、まだ何も分からない。でも今まで何度も転んで立ち上がれたのだから、これからも、まあどうにかなるだろう、と思っている。

 

 付き合い始めたころ、夫に「あんまり長生きしたくないと思ってるんだよね」と言ったことがある。そのとき夫は「長生きしなよ。長生き、似合うよ!」と笑ってくれた。長生きって、似合う・似合わないがあるのだろうか?よくわからないけれど、似合うと言われたなら、それに従ってみようと思う。何しろ「おまけの人生」なのだ、どんなことがあっても、楽しんでいけるだろう。

 

 2019年までブログを続けてこられたのも、読んでくださるみなさんのおかげだと思います。猫も元気です。これからも細々と書き続けていきたいと思うので、今後ともどうぞごひいきに。

今日はそんな感じです。
チャオ!