インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

彼女たちのチェリッシュ

前回に続いて、また化粧品の話を書こうと思う。コンビニコスメが好きだ、という話を書いた。前回は化粧品というかネイルを塗る時間を作ることで、「自分のために時間を使う大切さを知った」という思い出話で締めくくった。生活の中にある「コンビニ」という場所が、化粧品というアイテムを扱ってくれているおかげで、ルーチンの生活動線から非日常へふいにジャンプするポイントを見つけられて、うれしかったのだ。ということで、今回は、また少し別の話です。

コンビニコスメの対極にあるのは、いわゆる「デパコス」と呼ばれる、デパートコスメだろう、という前提で話を進める。デパコス、というのは、いわゆる伊勢丹高島屋など高級百貨店の化粧品売り場において、ブランドごとに異なる凝った制服を身につけ、上手に(ときには濃すぎるほどの)化粧を施した美しい女性たちの対面販売によって提供される、手のひらに載るサイズなのに5,000円とか12,000円とかする高級な化粧品のこと、と、わたしは認識している。(もちろんそれ以外もあるのかもしれないが、今回は概念としてのデパコスなので、いったん除外する)

男性からしてみると「コンビニで売っているものも百貨店で売っているものも、同じ化粧品じゃないか」と思うかもしれない。「ただの水にちょっと加工しただけなのに化粧水やら美容液というものはなぜあんなに高いんだ」と思うかもしれない。ちょっと知見のある人だと「化粧品の価格なんてほとんどが宣伝費で、それが商品に転化されているだけだろ」と言うこともあるだろう。きっとすべて事実だし、馬鹿げているという気持ちにも共感できる。そりゃそうだろう、と思う。しかしそれだけではないのだ、とも思っている。

高校を卒業するころ、友人たちと連れ立って百貨店に化粧品を買いに行ったことがあった。「タッチアップ」(詳しい人は最近「TU」と略すんですね、かっこいい)というやつで、化粧品売場の、各ブランドのカウンターに赴き、こういうアイテムを探している、と頼むと、おすすめの商品を試させてくれる、というものだ。そのときには、さらにもうひと踏み込みして、初めてのメイク講座、みたいな感じで、販売員(BA、ビューティーアドバイザーというそうです)が実際に化粧をしながらひととおりの手順を教えてくれる、というものに申し込んだ。高校卒業のタイミングで、自己流じゃなくて、ちゃんとした化粧の仕方を習おうよ、という目的だった。友人とカウンターに横並びになり、それぞれにBAがついて、一通り化粧をしてくれた。肌を整え、眉の形や唇の形を整え、まぶたや頬に色を乗せた。わたしたちはとてもうるさい女子高校生だったので、カウンターはとても賑やかになり、平日の昼間の空いている時間帯で予約を申し込んでおいてよかった、と思った。化粧を終えた顔は、なんだかいつもの自分ではないような気がして、むずかゆかった。顔だけが自分から浮いているようで、落ち着かず、なんか大人みたい、と思った。そう思う程度には、わたしたちはまだ子供だったのだ。最後、それぞれがバイト代を貯めて持ってきていたお金でそれなりの金額を払って、みんなで化粧品を一式そろえた。それらはうやうやしく、丈夫で高級そうな紙袋に包まれ、ブランドロゴが入ったその紙袋を下げて街を歩くのが、誇らしかった。

その後、デパコスを始め、さまざまな化粧品と出会い、乗り換え、いまだに使っているものもあれば、買ってみたもののあまり使わないまま、誰かの手に渡ったものもある。今のわたしにとって、デパコスはなかなか縁遠いものとなった。それは休日のわずかな時間を使って百貨店の混雑する化粧品カウンターに赴き、人混みをかき分けてBAに相談をし、セールストークをかわしながら欲しいものだけを買い求める、という作業にかかる精神コストが、わたしにとって非常に高いせいなのだけれど、それでも新しい化粧品のパッケージや効能についての説明を読むと、心が躍る。あの小さな商品パッケージにはいろんなものが詰まっていて、1万円札を1枚か、数枚、お店の人に差し出すことで、それを自分の家に持ち帰れる、というのは、なんだかロマンティックなことのように思える。誰かが心血注いで作ったものを、現金と引き換えに自宅に持ち帰れる幸福、という意味では、世に販売されているすべての商品に言えることではあるのだけれど、化粧品という、ある意味、余剰なアイテムについてだから、より強くそう思うのかもしれない。

最近では、デパートコスメというのはそういうロマンティックなもので、日常における化粧はもっと普通でいい、と思うようになった。わたしにとっての化粧品は、どこのドラッグストアでも買い求められる普遍性だとか、日本全国どこに行っても同じものが手に入るという安心感のほうが重要、というアイテムだ。それは今のわたしにとって、「化粧」という行為が生活の一部になっているからであり、生活の一部をなす行為に使うアイテムを、どう選ぶか、という判断基準は、わたし自身のパーソナリティをよく表していると思う。それは特別な商品をわざわざ探して買い求めるのを楽しめない程度に面倒くさがりで、肌に触れるものについてはいつも同じであるという安心した状態を好み、身なりを整えるために必要以上の金額を支払うのを良しと思えない、というものだ。
プチプラコスメばかりをポーチ入れていて、大人の女として恥ずかしくないのか、という発言をどこかで見かけたことがある。確かにそう思う人もいるだろう。だけれどそのときわたしはむしろ、そういう状態をカッコいい、と感じてしまった。安くていい品を探して手に入れ、使いこなすのは、それもまた素敵な行動のように思えたからだ。様々な情報を集めそれらを精査し、適正と思える価格(よりもう少しお安く、お得に)で商品を手に入れるためには様々なステップがあり、多くの意思決定がある。そういう工夫や検討ができる人が行っているであろう逡巡を微笑ましく感じ、わたしもそういうことのできる人でありたい、と思っている。

いっぽうで、きらびやかな百貨店のカウンターに座り、美しいBAたちにうやうやしく接客をされ、丁寧に説明やアドバイスを受けた上で自分のもとへやってくる高級な化粧品のよさ、というものも知っている。そのときめきは、きらきら光る宝石や、おいしいチョコレートを手に入れたときの気持ちと似ている。必ずしもすべての人に必要なものではないかもしれないが、今のわたしにとっては必要なのだ、という、秘めやかな愉しみだ。チェリッシュ、という単語がしっくりくるのかもしれない。そしてそういう秘めやかな愉しみを知り、胸のうちに持つ女性を、素敵だと思う。

どちらのよさも知っている、というのは、年齢を重ねて手に入れることができた宝物だ。今こうして街を眺めていても、様々な女性がいる。そして彼女たちはそれぞれ、様々なチェリッシュを胸に秘めている。それは彼女たちのポーチの中に隠されていて、当たり前のように彼女たちのそばにある。もちろん、そういったポーチを持たない女性もいる。そして、そういった女性たちもまた、持っている女性とは異なる、彼女たちだけのチェリッシュをどこかに秘めているのだろうと思うと、なんだかワクワクしてしまうのだ。

 

今日はそんな感じです。
チャオ!