誕生日にからめてちょっと旅行に出たので、数日、ネットから離れていました。
ただいまインターネット!
そんで別件で最近ちょっと悩んでいることがあり、普段触れない景色に触れていろいろ思いを巡らせてみたのですが、思ったのは、現状の自分が感じている「不安」はあくまで自分が思っているだけだったり、取り越し苦労や、単なる考えすぎだったりすることって、よくあるな、ということ。
今後起きうるかもしれない未来について、もちろん分かる範囲で情報を集めて推察していろいろ対策をとっておくことも大切なのですが、やれるだけのことをやった上でうまくいかないなら、それはもう何をしてもダメだったと思うので、うまくいかないかもしれないという懸念をアレコレ怖がって悩んでも、あまり意味がないんですよね。
なので「こうなったらいいなあ」とか「こうしたいなあ」は出来る限り前向きに取り組んで、できるだけのことはするけれども、そこから先は神のみぞ知る、もうわたしがどうこうできるものではない、ってある程度は「諦める」というか「手を離した」状態で向き合うほうが、いろんな意味でうまくいくのかもしれないなと思ったのでした。
また別のとき、前にも書いた親友と話していたんですが「喪失の恐怖」というのは実際にあるし、とても怖いことだけれども、それは惰性というか慣れの問題で、時間がすべて解決してくれる、ということ。それまで慣れ親しんだものが手の中から消えるのは恐怖だし、それを恐れる気持ちは当然なのですが、本当に、慣れるんです。正直、わたし自身も離婚後の気持ちの変化で実感したので、これは本当で、内臓がぜんぶえぐられるような、身体が大きな鉛のカタマリに押しつぶされるような苦しみも、いつかは消えてなくなる。本当に、ツルンと大丈夫になるんです。
たぶん、人間ってそうしないと辛すぎて生きていけないから、そういう仕様になってるんだろうなあと思うんですけど、そんなものなのか〜と寂しく感じるのと同時に、これはこれで、心強いことだとも感じます。どんなに辛い出来事も、時間が経てば、忘れていけるし、過去になる。だから、どんなことが起きたって大丈夫、と思えるようになりました。
わたしが今いちばん恐れているのは、「後悔」です。先日読了した「オールド・テロリスト」から引用しますね。(ちょっと軽くネタバレなので注意)
思いがけない由美子との会話のあと、おれが襲われたのは、後悔だった。後悔ほど恐ろしいものはないかも知れない。感傷や絶望なら、簡単ではないが、慣れや、回復の見込みがあるような気がする。後悔は違う。一生消えることがない。安定剤を飲むときも、ウイスキーを喉に流し込むときも、露わになった後悔が、鉛のように全身にのしかかった。(P.501)
「こんなとき、あまり、お酒飲まないほうがいいですよ」
わかってる、でも酒の力を借りようとしているわけじゃない、そう言ったが、実際にウイスキーをストレートであおっているわけで、説得力はなかった。おれは、もうろうとしている。ひょっとしたら自分の生年月日も言えないかも知れない。だが、そんな状態だったから、気づくことができたのだ。週刊誌が廃刊になり、クビになって以来、人生は後悔の連続で、だから逆に、気づかなかった。見ないふりをしていた。由美子との電話のあと、後悔ほど恐ろしいものはないとやっと自覚した。(P.529)
まあだからなんというか、結局「後悔しないように行動して、死ななきゃ人間、なんとでもなる」って感じですかね。
素晴らしい誕生日を過ごしたので、この1年もまた素晴らしい日々が続きそうです。本当にありがとうございます。
今日はそんな感じです。
チャオ!