インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

アクセルの踏み方または精神と肉体の関係について

なるべく他人と対立しないように、人当たりよく、誰かを嫌うことなく過ごしたいと思っていました。10代はひどい癇癪もちで、常に何かしら腹を立てていて、周りからも指摘されているのにどうしても治せなくて、そういう自分がすごく嫌だったせいもあります。

他人や世間は変わらないから自分を変える

何かしらに怒ってばかりだと、生きていることがすごく疲れるな、と思って、いろいろな本を読んだり、物事を試しました。「周りを変えるのは難しいけど、自分を変えることはできる」何かでそう読んで、なるほど、と思い、実践してみました。


自分が不愉快なことでも、相手がそう思うならそちらが正しいんだろう、ネガティブにとらえる自分が間違っているのだろう、そう思い込んで、相手に従うよう、相手の気持ちに沿えるよう努力しました。

その訓練は功を奏して、人当たりのいい、誰にでも愛想のいい自分になれつつあった気がします。自分が相手に合わせればいいので、むしろ自分自身の考えや主張なんて持たなくてよいのです。楽といえば楽でした。

他人の頼みごとに過剰にこたえたがる

相手に合わせれば合わせるほど、こちらに好感を持ってくれる手応えがあって、これでいいんだと思いました。相手の要望に応えれば応えるほど、感謝されたり喜ばれたりして、自分が必要とされている気分になれました。ここにいてもいいんだ、必要とされているんだ、というのは、大げさかもしれませんが、「生きていてもいいんだ」という自信を与えてくれました。


相手にただ合わせるだけでなく、さらに相手の期待していることを予想して、その延長線上の何かを返せないか考えました。
10くらいのレベルで頼まれたことを、もっと喜んでもらいたくて、12、15、20と返し続け、期待以上の結果に相手が喜ぶことで、自分の存在意義を感じていました。

そして破綻する

ひたすらこの方法を取って、10年近く過ごしました。相手が求めることを考え、自分の主張を曲げ、相手の喜ぶことをする。他人(他者)を通じて自分の存在意義を確保し、この人が認めてくれるから、ここにいてもいい、生きていてもいいんだと自己確認してきました。


ただ、それは直線で引かれるべき線に雲型定規をあてたようなもので、だんだん何かが乖離していき、そのすき間に嵌まり込むような形で、破綻がやってきました。

肉体は解決不可能な危機に見舞われた時病気の中に退避する
− 村上龍コインロッカー・ベイビーズ

精神の限度を無視して自分を殺し続けると、肉体に負荷がかかります。そして負荷に耐え切れなくなった肉体は、病気という形で危機を脱しようとする。そういう経験をしました。

100%でもダメで、0%もダメ。

初めて車の運転をしたときに、どのくらいアクセルを踏めばどのくらいのスピードが出るかが分からなかったことと似ています。ちょうどいい力加減で踏み込まないと、追突したり、前に進めなかったり。


車によっても踏み込みの強さを変えなければいけないように、「このくらいで何でもOK」というのはないことを知りました。強く踏まないと進まないときもあれば、軽く踏んだだけなのに急発進して肝を冷やすこともある。

感覚的に出来る人もいれば、わたしみたいに自分自身を上手にコントロールするのが下手な人間もいます。これも運転と一緒で、だからダメ、というのではなく、下手は下手なりに「ちょうどいい加減」を覚えていけばいいのだ、と思います。


なにより大切なのは自分が苦しくないこと。リラックスして、自分を含め誰かを責めることなく、否定することもなく、緊張をといて、楽になること。

そのためであれば、必要以上のガマンはしなくてよかったんだ、ということに気付きました。自分自身のことも、辛いことから守ってよかったのです。相手を尊重することと、自分を曲げてまで相手に合わせることはまったく違うことで、それに気付くのに時間がかかってしまいました。


まず自分や自分の身近な人の幸せがあり、その向こうに誰か他人の幸せがあり、その全体の調和を取るために押したり引いたりすることが、楽しくドライブしていくということなんだろうなあ、と思っています。

最初から拒絶したり向き合わないのは別問題として、調和を取るべくいろいろ動いた結果、どうしてもそれらが並走できないのであれば、理想の線が描けない雲形定規を捨てることを、受け入れてよい、と思っています。
まだまだ難しいですけどね。


コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)