インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

他人の悲しみに「寄り添う」ことと「私物化」することは違う

誰かが苦しみや悲しみに向かい合っているとき、その人が自分にとって大切な人であればあるほど、何かしてあげたい、力になりたいと思います。

できれば話を聞きたいし、手伝えることがあるならそうしたい。それは自分の手で相手の苦痛をやわらげ、笑顔になってほしいと願うからなのですが、もしかしてこれは自己満足ではないだろうか、と思うことがあります。

自分の無力さを認めるのは難しい

誰かの手助けをしたり、自分の行動が役に立つのは嬉しいことです。存在が認められたという気持ちにもなるし、自信にもつながる。誰かが喜んでくれれば、もっともっと、と頑張りたくなる。

では、もしもその相手が「あなたに出来ることは何も無い。放っておいて欲しい」と自分が差し伸べた手を拒否したとしたら?

「人が親身になっているのに!」と気分を悪くするでしょうか?
「恩知らずなやつだ!」と逆に相手を批判するでしょうか?

わたしは自分の中にそう感じてしまう何かがいることを、最近まで認められずにいました。それはつまり「今この瞬間に自分に出来ることは何も無い」「自分は相手に対して何もしてあげられない」というのを認めなければならず、自分にはなんの力も無い、というのを思い知らされるようで、とても辛かったのだと思います。

何かをすることだけが手助けではない

目の前で苦しんでいる人を見たら放っておけない、と思うのは素直な感情だと思います。もしかしたら自分に余裕があるときに限るのかもしれませんが、それでも他者を思いやったり気遣う自分をなくしたくないとも思います。

であれば「水をあげましょうか」と声を掛けることが必要なのであって、相手が「今は必要ありません」と拒否したとして、自分の思うように相手が自分を求めてくれなくても、それが何だというのでしょうか。

自分がやりたいことを相手に与えるのではなく、相手がしてほしいと思うことをする。それが自分の意にそわなくても、相手の望むように自分がふるまうことが思いやりなのではないだろうか、と思うようになりました。


その中に「何もしてほしくない」「放っておいてほしい」という選択肢があっても不自然ではないのだ、と。

その人にしか分からないことがある

もちろんこれは手探りしていかなければわからないことで、相手が本当に何を望んでいるか、何が必要なのか、もしかしたら相手自身も分かっていないことがあるかもしれません。

自分が何かをしたり与えたりして、相手の状況が改善するのは、とても気分がいいものです。ですが、状況がすぐさま改善しなかったとき、ガッカリしたりする必要もありません。小さい積み重ねを、ちょっとずつ、忍耐強く続けることでしか改善しない問題もあるのだと思います。

そんなときに大切なのは、何もせず「ただそばにいる」ことなのだろうと思います。物理的にでも、心理的にでも、相手に「今は必要がなくても、もしもあなたが求めたとき、わたしはすぐ駆けつけるよ」というメッセージを伝え続けること。


相手の人生や気持ちに踏み込まなくても、出来る手助けがあるのではないか。その場合に求められるのは「見守る」ということ、これがよく見かける「悲しみに寄り添う」ということなのかな、と思います。