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インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

人は自分の物語を生きることしかできない/映画『モッシュピット』感想文

カンパニー松尾 ハマジム 音楽 モッシュピット

映画『モッシュピット』を土曜日と月曜日に観た。

土曜日に観終わった後しばらくは、自分の中で整理がつかなかった。
納得がいかない、と思った。あのシーンもあのシーンも、あのエピソードも、どこにいっちゃったの、と思った。しかしLIQUIDROOMモッシュピットを真上から撮った映像はとてもきれいで、もみくちゃになる人たちのうねりが、ひとつの生き物のようだった。そこにすべてがあった。だからこそ混乱した。

モヤモヤした気分で週末を終え、月曜にもう一度、足を運んだ。観終えた人たちの感想を受けて、音圧の強化をした、という知らせがあったのと、関係者席でなく、自分のお財布から出したお金で得た席で観ないまま感想を言うのは、なんだかカッコ悪いと思ったからだった。

なので、本感想は映画『モッシュピット』の監督インタビューをして応援している立場からではなく、あの11月18日の夜をきっかけに彼らに夢中になった1人の会社員が、この映画を見て感じたことを率直に書きます。

 映画の冒頭は、LIQUIDROOM直前に配信されたDOMMUNEのシーンから始まる。LIQUIDROOMのリリースパーティを、クラウドファンディングという新しい方式を使い、出資者を募る形で実施することの意味、それに至る思い、彼らが思っていること。語られている中で「いらだち」という印象が強く残り、個人的にとても共感した場面だった。

村上龍の小説に「ラブ&ポップ」という作品がある。偶然通りかかった宝飾店で見つけたトパーズの指輪を手に入れるため、援助交際に踏み出す女子高生を主人公とした作品で、彼女がそこまでしてトパーズの指輪を欲しがる理由に、こんな描写があった。

去年の夏、『アンネの日記』のドキュメンタリーをNHKの衛星放送で見て、怖くて、でも感動して、泣いた。
次の日の午前中、バイトのためJJを見ていたら、心がすでにツルンとしているのに自分で気付いた。
アンネの日記』のドキュメンタリーを見終わって、ベッドに入るまでは、いつかオランダに行ってみようとか、だから女の子の生理のことを昔の人はアンネというのか、とか、自由に外を歩けるって本当は大変なことなんだ、とかいろいろ考えて心がグシャグシャだった。
それが翌日には完全に平穏になって、シャンプーできれいに洗い流したみたいに、心がツルンとして、「あの時は何かおかしかったんだ」と自分の中で、「何かが、済んだ」ような感じになってしまっているのが、不思議で、イヤだった。
今日中に買わないと、明日には必ず、驚きや感動を忘れてしまう。きのうはわたし、ちょっと異常だったな、で済まして、買ったばかりの水着を実際につけて脱毛の範囲を確認したりしている自分がはっきりと想像できた。インペリアルトパーズは十二万八千円だ。 

ラブ&ポップ―トパーズ〈2〉 (幻冬舎文庫)

ラブ&ポップ―トパーズ〈2〉 (幻冬舎文庫)

 

  わたしも同じだった。あんなに感動して今この瞬間しかないと思った夜のことも、寝て起きて、仕事をして、友達とビールを飲んで笑ったり好きな人からのメールを待っている間に埋もれていって、そして消えていく。

大半はそんな夜だった。でも11月18日の夜はなんだか違っていて、今夜は何かが変わる夜だ、変えていく夜なんだと思いながら、家に帰る電車に乗っていた。だからこそこの流れに少しでも関わりたい、と願った。

そこには確かに「つかみかけたざわつきが消えていってしまうことを受け入れている自分」への苛立ちがあった。

 

 映画の話に戻る。

冒頭で提示された浅見北斗の苛立ちには明確な回答が見えないまま、それ以外の人たちの感情がまた提示される。熱狂、思い込み、焦り、怒り、言い訳、諦観、逃げ、もがき。ストロボライトのように明滅する強い感情が、観ていてるこちらの神経を疲れさせた。どれも抱えた覚えのある感情だったからだ。そして結局、作中でそのどれにも回答が見えてくることはなかった。もしかしたら、彼ら自身にも見えていないのではないかと思った。

涙を見せて「今の自分たちは、ハバナイがカッコよく見えるための飾りにしかならない」と言った人が、LIQUIDROOMが終わった瞬間に「良かった〜」と泣く。そこに回答はあったのか。解決はあったのか。あったかもしれないし、なかったかもしれない。なかったとしても、それを全部飲み込んでしまうのがあの美しいモッシュピットで、苛立ちも怒りもすべて忘れさせてしまう麻薬のような恐ろしさがあるのだと思った。

一方で、その回答のなさに「置いてけぼりにされた」とも感じた。結局これは「彼ら」の物語であって、「わたし」の物語ではない。一瞬でも内側に触れられたように感じたのは幻で、その回答の見えなさは、彼らの物語を理解しない「部外者」として、物語からつまみ出されたように思えた。

 

たぶんわたしは、この先もずっと「部外者」なのだと思う。それほどに彼らの「輪」は強固だ。映画の初めでは、メジャーな音楽フェスの市場規模が比較対象として例示される。それと比べてしまうと、彼らが活動するフィールドはあまりにも小さく、オルタナティブだ。だからこそ彼らは暑苦しいほどまでに結束を固めて、場を守る必要があったのだと思っている。

 2013年にJukeという音楽ジャンルを知り、実際のライブを観てみたくて、Shin-Jukeというイベントに足を運んだ。知り合いは1人しかいなかった。みんなが仲間のように親しげな空間は、正直、居心地がいいとはいえなかった。それでもライブは楽しくて、嬉しくて、汗をかいて音に合わせて踊るのは快感だった。その快感だけが、わたしをライブハウスに連れて行く。疎外感を乗り越えてでも欲しい快感が、そこにはある。

だから、それでいい。そんなことがどうでもよくなるのがモッシュピットで、暴力的なまでに生の音が鳴り響くライブハウスという「場」なのだと思っている。そこに分かりやすい回答が、なかったとしても。

そしてそこに"明快で誰にでも分かりやすい回答"を明示しないところは、そうか、これが岩淵監督作品なのだった、と思った。

 

 結論を書いて終わる。

映画の出来について、わたしはもう冷静に判断ができなくなってしまっていた。それくらい巻き込まれているし、彼らに思い入れ、応援したくなっている。それはわたしが”諦め”という感情を受け入れかけていたところへ自らの苛立ちを伴って現れた浅見北斗という人に、惚れ込んでしまったからだ。わたしが出来ないことを、彼に託したくなっているからだ。この映画は、それを補強するための物語だと思った。

そしてわたしと同じように感じている人たちが彼と一緒に夢を見て、東京の片隅で蜂の羽音のように空気を揺らしていることを、他の人にも知ってほしいと思う。彼の周りにいる表現者たち、それを支えるスタッフ、そしてそれを捉えようとする監督たちがいるこの瞬間を、一人でも多くに知ってほしい。そういう魅力が、浅見北斗という人にはある。それは今この時代でしか触れられなくて、今この瞬間にしか顔を出さない輝きなのだと思う。その魅力が、この映画で少しでも伝わることを願っています。

今日はそんな感じです。
チャオ!