20代の頃にある手術をして、目立たない場所にあるんですけど、けっこうくっきりと、身体に傷が残っているんですね。
最初それができたときには「この傷が身体にあるってことがわたしの一生に残るのか、『一生変わらないもの』って実在するのか、すごい」と思っていたんですけれども、最近お風呂でそれをまじまじと見たときに、かなり薄くなっていて、おお、と思ったんです。
10代とか20代の若い頃に、「ずっと変わらないもの、ずっと一生残るものなんてない」、と思っていたら、はっきりとした傷が身体にできて、お医者さんにも「一生消えません」と言われて、そうか一生残るものもあるのか、と思っていたけど、やっぱりそれも時間とともに薄くなって、「傷」という存在自体は残っているけど、色や濃さが変わって、「自分の一部」になったんだなあという感じ。
「自分」という存在は常に変わるし、これから先もまた変わっていくと思うんですけど、この「傷」はそのままここにあって、わたしと一緒に変わっていくんだなーすごいなーみたいなことを考えまして、「日にち薬、じかん薬」という言葉を思い出しました。
「日にち薬」って、なんかこう病気とかになって「時間とともに症状が落ち着くものだから、しばらく様子をみましょう」みたいなときに使われるそうなんですけど、けっこう重宝する概念だなと思います。
身体や心が深く傷付いて、自分だけの力ではどうしようもなくなったときとか、「これはもう日にち薬しかないな」と思って、諦めてしまうというか、そういうときに使う方便、みたいなのがあるのとないのとでは、生きやすさがずいぶん違うんじゃないかな。方便っていうと、昨日書いた「日本手酌連盟」なんかも、そうですね。
怪我したり切ったりすると身体から血が出るのと一緒で、心にも傷がつくと、たぶん血みたいな何かが出る。出ているうちはとてもしんどいし、傷がふさがったばかりのときもやっぱりまだヒリヒリしてて、触るのもつらいけど、時間が経てば皮膚が厚くなって、触ってももう痛くなくなる日が必ず来る。
実際、おととしの年末に離婚をして、いろんなことに絶望はしましたけど、今もこうやって生きてるし、紆余曲折あれどもそれなり楽しく過ごせているし、鬼平の言ってたこと、まさにそのまま、という感じ。
「死ぬつもりか。それはいけない。どうしても死にたいのなら、一年後(のち)にしてごらん。一年も経てば、すべてが変ってくる。人間にとって時のながれほど強い味方はないものだ」
「時間が解決してくれるよ」とか言葉にするのは安易な気もしますが、「日にち薬を服用しているのだ」と思って、時間の流れとともに変わっていく自分を確かめながら、よろよろと生きていくのも、けっこう面白いものだな〜と思ったのでした。
まあ何が言いたいかというと、死ななきゃだいたいのことはなんとかなる、だから大丈夫だよ、という感じです。
雨とか雪の日は感傷的になっていけませんね。これがもしかしたら「雨の日には古傷が痛む」ってやつかもしれません。
「男の作法」で池波正太郎に触れられたら、鬼平犯科帳も、ぜひ読んでくださいね。長谷川平蔵、かっこいいよ。
今日はそんな感じです!
チャオ!