インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

2017年第7週の日記

2017年第7週の日記です。

今週は暖かい日も多く、春が着実に近づいてきているのを感じた一週間でした。スーパーにも春野菜がたくさん並び始めているのを目撃し、とてもワクワクしています。あと今週は平日に毎日なにか1つ書く、を試してみたのですが、意外と書けてよかった。そういう気分のときパッと着手するのは大切だな、と思った次第です。次からは「平日毎日」とか気負わず書こう。

それでは今週の日記です。

20170213

月曜日です。冷えつつも暖かさを感じる日。お天気がいいと気分もいいですね。

ニュースチェックをするついでに見ていたサイトで、ある本を見つけました。「東京ノスタルジック百景」。フリート横田さんの著です。2020年を前に再開発が進む東京の、喪われゆく景色を歩き取材した内容をまとめた一冊。ニュー新橋ビル、築地市場、三茶の三角地帯。通りかかったりよく目にすることの多い馴染みのある景色も含まれていますが、今までは通り過ぎるだけだった風景にどんな人がいたのか、がくっきりと浮かび上がります。 

東京ノスタルジック百景 失われつつある昭和の風景を探しに

東京ノスタルジック百景 失われつつある昭和の風景を探しに

 

 あっこれは絶対好き!と思ったので会社帰りにすぐ買いに走り、帰宅してじっくりと読みました。前日、長野重一さんが1950年代の東京を撮った写真集を見て、さらにそのあとソニー展で同じ年代のソニービルの写真を見かけたり、似たような時代の風景に触れる機会が続いていたので、今回もそういうめぐり合わせかな~と思いました。

東京1950年代―長野重一写真集

東京1950年代―長野重一写真集

 

「そういうめぐり合わせ」ついでだと思ったので下北沢B&Bへも寄り、おもしろそうな本をいくつか物色。いくつかいいなと思う本もあったのですが、今月はいろいろ買いすぎだなと思ったので、いったん見送り。本棚の整理もしなければ……。

 

20170214

バレンタインデーです。にも関わらず疲れはてていて、自宅に帰るのすらおっくうで、夕食をひとりで食べて悲しくなって、とぼとぼと帰途へ。家についたらすぐお風呂を済ませ、今週も「カルテット」です。

先週ラストのサスペンスのような引きをそのまま持ち越したような、ハラハラする展開。感情が揺さぶられ続けたので、観ていてしんどかった。そして「結婚してたのに夫にずっと片思い」というマキさんのセリフ、わたしもそうだったので、つらくなりました。「捨てた」とか「捨てられた」とか言いたくないですけれど、そういうふうに誰かとの関係をパッと手放せる人は実際にいる。そういう人から手放される、諦められてしまう瞬間というのは、それを思い出すだけで、本当に、つらい。過去の離婚に至る過程で「わたしとのことを、わたしとの人生を諦めないでよ」と何度も訴え続けたけれど、結論、それは叶わなかったのです。

手を放されてしまったらわたしにできることはもう何もないし、そしたら自分の心が死なないために「クソヤロー!」って叫ぶしかなかったよな、ということを思い出してしまいました。そしたら芋づる式にいろいろ蘇ってしまって、非常にダウナーになった夜。いやあ、感情移入しすぎですね。来週は大森靖子さんが登場ということで、こちらもソワソワ……

 

20170215

なかなかつまりぎみの1日。朝から会議やらなんやらで、慌ただしく過ごしました。お昼ごはんを食べそびれたり、なんだか調子が出にくいというか、身体や頭がぼんやりして、モヤがかかった感じ。気分転換で休憩時間にiPhoneからブログをバーっと書いたり、フロア移動を階段にしてみたり、いろいろ試して、なんとか日中を乗り切りました。

夜は心配して会いに来てくれた恋人とオムライスを食べて、お店を移動して軽くお酒を。いろいろとくだらない話をしていたらだんだん元気が戻ってきて気分もよくなったので、信頼できる大切な相手と過ごす時間って大事なんだなあ、と思った日。

 

20170216

暖かい日。そういえばこのところずっと暖かい日が続きますね。もう春が近いのかなあ。例年でいうとここで一度またグッと寒くなるようなイメージがありますが、このまま暖かくなってほしい。

朝から外出で、長い会議でこちらの主張をほぼ100%飲んでもらうことに成功し、意気揚々と戻ってきたものの、ずっとしゃべり続けていたせいかドッと疲れが出たので「今日はもう最低限のことしかしないぞ」と決意して、そのようにしました。

この日は婦人科のかかりつけを変えようと思って見つけたクリニックの予約がありました。行ってみたところ、いろいろ配慮が行き届いていて、驚いた。個人名を呼ばないよう番号札を渡されその番号で呼ばれたり、でも対面時には必ずフルネームの確認があったり、検査結果を電話で聞くことができる体制が整っていたりと、こんなとろがあるんだなあ、と思ったのでした。あと院内にスマホ充電OKのコンセントがずらり並んでいるスペースがあって、それにもビックリ。アクセスもよくいい病院だと思うので、しばらくここにお世話になります。

 

20170217

春か!というくらい気温が上がった日。風も強く、なんと春一番が吹いたとのことで、うれしいな~。でも花粉症のみなさまは大丈夫かしら。

気の重い会議やら釈然としない通達やら、社会人として、まあこういうのはあるよね……という事象に当たって、その都度なるほど~~とか思いながら乗りこなし、予定を大幅に過ぎて退社。定時を過ぎてからの会議というのは、必要最低限のものしか受けないようにしているのですが、そういう時間帯でないと出てこないクローズドなエピソードもあるので、一律に断るわけにもいかないな、と思いました。

週末なので恋人に晩ごはんを作る約束をしていたのですが、そんなこんなで疲れてしまったので、外食に。せっかく楽しみにしてくれていたのに、ふがいないなあ、と思いつつ、無理はしないようにと決めているので、甘やかしてもらいました。ありがたいな~。夜は早めの就寝。今週も、おつかれさまでした。

 

20170218

予定があり早起きをしたのですが、身体の様子と相談し、疲労度の具合からしてアッこれは無理と思ったので、日中の予定をキャンセル。二度寝をして起きたのはお昼ごろ。だらだらと過ごしてツチヤタカユキ「笑いのカイブツ」を読了。

笑いのカイブツ

笑いのカイブツ

 

感想は、うーん、保留します。でも鮮烈な一冊ではあった。

その時点でもう17時、何をするにも遅い時間帯だな~という感じ。しからば晩ごはんをしっかり作って食べようという結論に至り、シャワーを浴びたあと、新しくできた大きなスーパーへ。初めて行ったわけではないのですが、欲しい商品を探して店内のあちこちを巡っていたら、味噌や醤油や油などが大量種類展開されている棚を見つけてしまい、調味料好きとして大興奮して(恋人に笑われたりしながら)商品を検分したのでした。調味料なんて一家に1つずつあればいいのに、なのにあんなに多くの種類が展開されているのは、「豊かさ」としか言えないし、その製法の違いや個性が本当に面白い。楽しかった……

すっかり興奮しながら帰ってきて、ビール片手に料理を始め、恋人にひき肉をこねてもらいながら、キッチンで「安住紳一郎の日曜天国」の過去放送分を一緒に聴く。やはり朝食バイキングの回とサプライズ至上主義への上申書の回は本当に好き。よく笑って気分もよくなり、夕食の煮込みハンバーグに目玉焼きを載せるという贅沢までしたので、最高の夜でした。せいぜい数千円で、ふたりこれだけ楽しく幸せに過ごせるんだから、料理っていいものだなと思ったのでした。(ひき肉はよくこねられていて、おいしいハンバーグになりました)

 

20170219

雲ひとつない青空の暖かい日。久しぶりのバンド練習で渋谷へ。

バンド練習、というと正確じゃないですね、練習というよりふんわりしたテーマを決め、みんなで好きなフレーズを鳴らして合わせ、曲っぽいものを作る、というかなり自由な遊びなのですが、今回は初めてトロンボーン奏者の友人と合わせることができて、楽しかった。電子音+ギター+ドラムにトロンボーンなので、生音の圧に電子音をどうやって混ぜるかみたいなところが課題かと感じたのですが、どうしたらいいか、わたしにまったく知見がなく、手探りの3時間。でもこういう手探りそのものが楽しいので、続けててよかったな、と思います。気付けばこのメンバーで合わせるようになって、もう3年!途中でペースダウンしたりもしましたが、継続は力なりですね。

軽い気持ちで始めたドラムですが、自分の身体を動かして大きな音を出す、というのには、原始的なよろこびがあるように思います。そして集中してフレーズを叩いて、次、どうしようか考えている瞬間は気持ちがスーッと無になっていくので、とても気分転換になる。周りの音をよく聴き、他のメンバーが何をどうしたいのかを察知して、じゃあわたしはこうしてみよう、と叩いた音がハマる瞬間は、本当に楽しいので、これからも続けたい。とはいえ「こういうふうにしたい」を実現するには全然パワーもテクニックも足りないので、筋トレと練習の必然性を改めて実感したのでした。

 

今年の第7週目は、そんな感じでした。

チャオ!

共感と肯定、愛すること、理由を言葉にすること

言及いただいたブログへのお返事を書こうと思います。

まずこちら。

majyonan.hatenadiary.com

共通とか共感とか、大ざっぱで雑な言葉だ。違う人間だから、そんなに一緒の気持ちになったり理解はできない。とはいえ、案外単純に簡単に、スッと通じる瞬間があることも知っている。それが思い違いであるとしても。似て非なるものだとしても。

同性への目線、それは、安心感と憧れと好意で、すこし同性愛的なものだ。 

紹介したブログを読んでくださっているとのことで、すごくうれしい。ありがとうございます。好きなものの共有は、楽しいですね。

紹介する記事を書いたあとに「紹介してるのは、みんな年下の女性だね」と言われてハッとしたのですが、確かにわたしが年下の女性のブログに対して持っている感情、というのは、どこか恋に似たところがあるな、と思いました。
恋人とかに感じる愛というよりは、もうすこし「遠いもの」とか「憧れ」とかに近いのかもしれない。なので「彼女(の書くもの)って素敵でしょう」とみんなに言いふらしたくなるし、褒められるとわたしもうれしい。

基本的に共感できる、理解できる、わたしにもそういうところ/そういう経験があるな、と思いつつ親しみを感じて愛読しているものの、当然ながらみんな他人で、違う人間です。彼女たちがずっと書き続けたとき「あれ、ここはわたしとちょっと考え方が違うな」と感じることも出てくると思うのですが、それも含めて楽しみだし、ずっと見ていたいな、と思っています。やっぱり「好きな人と自分の違うところ」の発見はおもしろいし、ワクワクしますね。

せっかく生まれてきたんだから、わたしはいっぱい愛して、生きていきたい。

わたしもそう思います!

次はこちら。

puch0o.hatenablog.com

自分ができないことがあるのって認めたくないけど、できないって認めないとどこにも進めないしきっとそれが次のステップへの越えるべきハードルなんだ。もうすぐ新卒1年目も終わってしまうけど、泣かないようになりたいな、って初歩的なことを思いました。この涙の理由を説明できるようになったのが一つ成長ですきっと。

ハァ〜〜〜わかる。わたしも新人の頃、会社でよく泣いていました。とはいえわたしは本気で仕事をし始めたのが遅かったので、新人といっても20代後半で、いま思うとかなり恥ずかしいですね。

オフィスビルの業務用エレベーターの乗り場は、人があまり通りがからないので、落ち着いて泣けるんです。深夜、エレベーターホールのすみっこにしゃがんでメソメソ泣いて、気が済んだら顔を洗って化粧を直し、仕事に戻る、というのがよくあったので、会社のトイレに化粧道具一式を置いておいたりもしました。

仕事に慣れ、経験が増え、なぜこういうとき自分が泣いてしまうのか、を冷静に考えられるようになってからは、泣くことはもうなくなりましたが、「理由を説明できるようになる」のは重要だった気がするな。わたし自身の理由は主に「悔し泣き」でした。できない自分が悔しい、ダサい、自分にムカつく、という怒りの感情が行き先をなくして涙として出てきていたようです。(今となっては「言うほど優秀じゃないし、その割によくがんばってるよ、自分」と思うようにしています)

仕事で泣くことに対して厳しく批判する人もいますけれど、それで頑張れるなら、ガス抜きとしてこっそり泣くくらい、いいじゃん、と思います。上司からしたら、部下が仕事に行き詰まって泣いているのは心配だし、泣く前に一緒にどうしたらいいか考えられるよう早めに相談してほしい、と思うかもしれないけれど、人それぞれですものね。悔しがれる人は伸びる、と思っているので、応援しています!

 

以上です。
必ず書くよ、とは言い切れないのですが、言及いただいたらなるべくお返事を書いてみようと思っているので、よければまた意見を聞かせてくださいね。

今日はそんな感じです。
チャオ!

「はざま」の領分

www.izuremo.com

書いたものにリアクションをもらうのは、とてもうれしい。ありがとうございます。

しかしこれを「ファンタジーのようでリアリティがない」と書かれてしまう状況と、「そういう状況から変われない場所が、まだまだたくさんある」という事実に、たいへん心を痛めています。というのも、そういう世界が当たり前な状況を作ってこれなかったのは、ある意味、わたしたち世代の責任でもあると思うからです。

わたしがいる世代というのは、まだまだ上の世代も元気な一方、下の世代も実力と経験を兼ね備え始め、いよいよ本気で働くぞというタイミングで、ちょうど「中間管理職」といわれるポジションです。

そして同時に(サイボウズ式の連載でもよく書いているように)、働き方の変革期が到来している昨今、「上からされたこと/教わったことを、そのまま下にしていると、時代の変化についていけない」という難しい状況でもあります。

男女雇用機会均等法の制定が1985年、わたしたちの上の世代の女性が社会進出を果たし、バリバリと切り拓いてくれてきた道を、ありがたく歩かせてもらっている、という自覚がわたしにはあります。さらにそのもう一世代上になるであろう、わたしの母なんかは「女が外で働くなんて」「女が学問をするなんて」という価値観で、ガチガチにされていたわけです。
もし、その状況に自分が置かれていたら、今のわたしではないわたしが出来上がっていたのだろうと思うと、心の底から感謝していますし、わたしみたいなただの一般社会人が、こんなふうにして偉そうに「自由な働き方とは」「女も自立して働こう」とか言えるようになったのも、その世代の、そのまた上の世代の先輩方の努力のおかげなわけですね。

「そんな大げさな」と思うかもしれませんが、ともかく、わたしにはそういう自認があるのです。なので、社会に出て、仕事が楽しくなり始めた頃から、わたしも自分の下の世代の女性たちのために何ができるか考え続けたい。そしていくつになっても「あんなふうに働けたらカッコいいな、楽しそうだな」と思ってもらえるよう、いい感じの背中を見せていこうと決意したのですが、それでもまだまだ、力及ばずなのだよな、と、改めて実感しました。悔しいですね。

その上で、わたしが決めていいることが3つあります。

ひとつめ、そういう状況がある、というのを認識しつつ、「それでも社会をよくするために、1つ1つ変えていこう」という気持ちをなくさないこと。
ふたつめ、個人ブログを含むメディアの役目のひとつには「空気の醸成」があると思うので、前時代的で非効率な価値観について「いけてないよ」と言い続けること。
みっつめ、なにより、わたし自身が上の世代のいいところを引き継ぎ、よくないところを改善し、「働くことで社会を変えていく」理想の体現者であること。

いつかどこかで心が折れたり、わたしの人生の優先順位がガラッと変わって価値観が変化しない限り、この3つのことは、ずっと続けていくと決めています。フリーランスを経て組織に戻ってきて、その思いはより一層深まりました。多くの人と関わり、「会社」という大きな生き物をどうやって乗りこなして、関わる人たちの人生を良いほうに向け、ひいてはどのようにして社会を良くしていけるか、というのは、個人的に死ぬまで取り組み続けたいことのひとつです。それは「上から引き継いだバトンを、しっかりと下の世代に受け渡ししたい」という、「はざま」にいる人間の役目であり、領分なのだろうと思っています。

と、いう気概でやってまいりますので、これからも応援していただけると幸いです。なんかずいぶんと、意識が高いことを書いちゃったな!まあそういう日もありますね。そしてサイボウズ式の連載では、今後もそういうことを書き続けていくつもりなので、あわせてどうぞご贔屓に!

cybozushiki.cybozu.co.jp

今日はそんな感じです。
チャオ!

理由がなくたって愛されていいのだ

「ほぼ日」がジャスダックで上場承認を受けたとのことで、久しぶりにサイトを見に行った。(おめでとうございます)

ほぼ日刊イトイ新聞 

わたしにとっての「ほぼ日」は、「いっときめちゃくちゃ夢中になったけれど、自分の価値観の変動によって気持ちに距離ができ、一時はやや嫌悪感を抱いたりもしたが、絶対にいなくなってほしくない存在」くらいの感じ。元カレかよ。ともあれ、ひところはとても発信内容に影響を受けたし、ほぼ日手帳を何冊もリピートしたし、以前ほどではないけれど、今でもたまに見に行っては「いいなあ」と思っている。そんな「ほぼ日」に、「今日のダーリン」というコンテンツがある。

これは「ほぼ日刊イトイ新聞」の主宰である糸井重里さんが毎日、ほぼ日のトップに書いているエッセイで、毎回だいたい1000文字前後の、軽めなもの。内容はその日によっていろいろで、基本的には糸井重里さんの身の回りに起きたことを書き留めている感じ。さっと読めて、なんとなくホワンとする、そういうエッセイ。毎日1000文字、言葉のプロとはいえ、これを続けるのは、すごいことだと思っている。

わたし自身でいうと、2016年は、日記を毎日つけていた。けれど、わたしがただの社会人ということを差し引いても、文章に書こうと思えるような大事件は毎日、そうそう起こらない。今日も昨日のコピーアンドペーストだったな、みたいな日の方が、たぶん多い。だからといって、毎日書いている手前、日記までコピーアンドペーストでいいだろう、というわけにはいかない。(いいのかもしれないけど)

そうすると、どうなるか。自分の中に絶え間なく何かをストックするためにアンテナを尖らせ、心をやわらかくしてキャッチし、言葉を生み出す鍛錬をし続ける必要があるのだ。これはもう筋トレのようなもので、毎日やるのはとても大変だし、もう無理だよ〜と思ってサボりたくなる日もあるが、続けてみると「アレッ!」と思うほどの効果がある。

それは不思議な感覚で、たとえが難しいのだけれど、自分の中に「書くための回路」が通ったような感覚が発生する瞬間が、確かにある。そしてその「書くための回路」が開通すると、目の前にある何気ないこと、身の回りに起きるささやかな出来事をちゃんとキャッチして、言葉へ変換できるようになる。見えているものの解像度が上がり、視界がクリアになったような気がして、同じように見えてこんなに違う、こんなことやあんなことがあったのに、今までのわたしは見落としていたのだな、という状態になる。

つまり何が言いたいかというと、言葉のプロである糸井重里さんが、毎日書き続けているこのエッセイ、毎日更新されるからってつい見落としがちなのだけれど、読まない理由はないよ、ということ。

 

で、ここからが本題。

つまり2月14日、バレンタインのほぼ日、「今日のダーリン」で書かれていたことに、はっとした話。

ざっくりいうと、糸井重里さんが長年飼われている「ブイヨンちゃん」というジャックラッセルテリアについての話。ブイヨンちゃんは、もうだいぶおばあちゃん犬なのだけれど、小さいときからずっと犬の友だちがいないのだという。「他の犬に対してのふるまいがよくない」し、最近では「けんかはしないけれど、犬を無視をするようになった」。

「そんなこんなで、うちの犬は、犬のともだちのいないまま、老犬になってしまった」そうなのだけれど、それを飼い主である糸井重里さんは「それはそれでそういう人生だったんだ」と思って、納得をしている。そして、「そんなふうな、ぜんぶ、まるごとが、うちの犬で、もっといいこになる必要もないし、この先も、ずっとこのままでいいと思う。」と、「なにかできるから愛されるわけじゃない、っていいことだ。」と締めくくっていた。

これを読んだときに、バレンタインデーという「恋人の日」に公開されるエッセイとして、すごくいいな、と思った。バレンタインデー前後には、恋人に何をした、何をしてもらった、という話題がとても増える。わたし自身も同じで、バレンタインデーには毎年、そのときの恋人に贈り物を準備したり何か喜ばせるような計画を立ててきたし、今年もそうした。お祭りごとなので、身近な人たちの間でも、どんなチョコレートをもらったか、あげたか、それは手作りだったか、ブランドものだったか、有名ではないけれど気の利いたセンスのあるものだったか、どうだとか、いろんな品評が出そろう。そこに自分のこだわりを盛り込んだり、相手の「喜びどころ」を見出すのは、お祭りごととして、とても楽しいものだと思う。

なのだけれど、恋人への愛の本質としては、「こういうことをしてくれたから、してくれるから、好き」というものではなくて、できなくたって愛してしまうから愛で恋人なわけで、そこに正確な理由なんて、きっとない。あったとしても、そんなのはあとづけでしかない。理由なんて、なくたっていいのだ。

まあこれは恋人に限らず、家族とか友人とか、そういうくくりに入れらない関係性の誰かだとか、とにかく「自分にとって特別な人」のすべてに通じることなのだと思うけれど、そういうのをバレンタインデーにサッと上げる糸井重里さんは、やっぱりいいなあ、と思ったのでした。

 

ブイヨンちゃんについては、このへんとか読むといいです。かわいいよ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - Say Hello! あのこによろしく。

ブイヨンの気持ち。 (ほぼ日ブックス)

ブイヨンの気持ち。 (ほぼ日ブックス)

 
ブイヨンの日々。 (ほぼ日ブックス)

ブイヨンの日々。 (ほぼ日ブックス)

 

今日はそんな感じです。

チャオ!

「人はもともと欠けるところのない存在である」

正確には「人はもともと想像力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」といい、「コーチング・バイブル」という本に載っていた言葉です。

コーチング・バイブル(第3版)―本質的な変化を呼び起こすコミュニケーション

コーチング・バイブル(第3版)―本質的な変化を呼び起こすコミュニケーション

 

 

突然ですが「コーチング」というコミュニケーション技法があります。ひところブームになったような印象がなくもないような、ともあれ一定の世代の人や経営層が、マネジメントレイヤーに上がろうとする人に対して身につけるよう推奨しているテクニックで、わたしも身につけるのを勧められたひとりです。具体的にどんな感じかというと、コーチング、という技法を用いてコミュニケーションを行い、話を聞く上で感じたことをフィードバックして、相手のよいところや特性を引き出し、人材開発に役立てよう、というもの。(すごいざっくりですみません。あとはググっていただければ……)

自分がメンティーを持つようになり、ごく自然に「これはいい技法だからちょっと勉強してみようかな」と思えたのですが、なんかコーチングという単語に絡んで自己啓発セミナー的なアレがあったりちょっとマルチ商法との接近があったりと微妙な感じを漂わせているせいか、あまり普及している実感がなく、残念です。しかし、この「コーチング・バイブル」にあった「コーアクティブ・コーチング 4つの礎」という基本的な考え方がわりと好きだなと思っていて、周辺のもろもろは横に置いておいて、この考え方がもっと広まればいいなと感じているので、備忘録として書いておこうかな、と思います。

さて、この「コーチング・バイブル」にある、コーチングの基本的な考え方である「4つの礎」、そこにあるうちのひとつが、今回のタイトルの言葉です。「人はもともと想像力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」、これはコーチングに際してはこれを前提として考えましょう、という「宣言」なのですが、これ、仕事に限らず、いろんなことに通じるなと思っています。

これに基づいて考えるとしたら、もし、わたしが仕事で部下を持ったとき、相手が職場で能力を発揮できていない場合、わたしが相手の能力を引き出せていないことが原因なのであって、相手の能力が低いわけではない、と信じましょう、という考え方になります。こう書くと、すごく「きれいごと」のように思えるんですが、自分の経験でいうと、なんか、こう、相手を信じよう、と決めてしまったら、スッと気持ちが楽になったんですよね。

特に英文だとよりイメージしやすいのではと思うんですけれども、それには「People are naturally creative, resourceful and whole.」とあり、「Perfect」ではなく「Whole」が「欠けるところのない存在」に該当します。これ、わたしも英語を日常語としていないので、ニュアンスがむつかしいんですけれど、「完璧」という表現は、していないわけです。人はそのままで、まるっと「欠けるところがない」んだから、上手に良さを引き出してあげるのがコーチの役目、という考え方なんですね。

以前は相手に期待をして、それが満たされないとガッカリしたりしていたわけですが、この発想を得てから、そういう緊張と落胆のサイクルから逃れられるようになりました。もちろん相手に対して「こういうことができるようになってくれたらいいな〜」と思うのは今も変わらないんですが、もし、それが達成されなかったとしても、落胆したり焦ったり、苛立つことが減った、という感じです。もしもお願いしたことがワークしなくても、「ああ、わたしの伝え方や教え方がこの人にはフィットしなかったのかな。じゃあもうちょっとコミュニケーションのやり方を変えてみようかな」というふうに、一発勝負ですぐアウト判定をしなくなったからだと思うのですが、これは指導する側/される側の双方にとって、とても良い効果があると思っています。

なにより、誰かを信じることができる、というのは自分の精神衛生上、良い影響がありますし、同時に「あなたはできるよ」と信じてもらっている状況、というのは、相手に安心を与えて、いらない緊張を解いてあげやすい。精神的な安心を与えることのメリットは、Googleが2012年に着手した生産性向上計画「プロジェクト・アリストテレス」でも言われていることです。

グーグルが突きとめた!社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ(小林 雅一) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

それは「気兼ねなく安心して発言したり行動できる環境を提供することが、もっとも生産性を向上させる」という調査結果でしたが、個人的には納得感があるものでした。
こんなこと言ったらバカにされるかな、ガッカリされるかな、と怯えたり、言動を否定されないか常に緊張していると、そのことにばかり労力を割くハメになって、本来の能力発揮にかける余裕がなくなってしまう。それってなんだか悲しいな、と思うんです。ちょっとくらい失敗したり間違えたり、そんなのしたってぜんぜんいいし、失敗に怯えることでその人の良さが発揮されなくなるのは、全体の幸福度を下げてしまう。もちろんリスクヘッジは必要ですが、そういう阻害要素はなるべく排除して、じゃんじゃん失敗してもいいよ、きっとあなたの得意なことは、どこかにあるよ、と信じて待つ、気長に待ちながらも、自分にできるところはサポートし、本人の離陸を見守る、という関係性を作る努力は、決して無駄にならないし、無駄にさせない、という強い決意を新たにした今日このごろなのでした。

で、なぜそんなことを思い出したのかというと、いま話題の「けものフレンズ」を観たせいなんですよね。あれも野生の世界で「自分のことは自分で守りなさい」と釘をさされつつ、サーバルちゃんはかばんちゃんのどんくささや慎重さを、決して否定しない。「きっとどこかにいいところがあるよ!」といっぺんの曇りもなく信じてくれているわけで、それに応じてかばんちゃんが自分の良さを徐々に発揮していく様子は、まさにこの考え方のとおりだな、と思ったのでした。

でも思いましたけど、あれはサーバルちゃんが自分独自の強みを理解していて、最悪自分は死なないという強さを身につけているからで、誰かに心理的安全性を与えるためには、自分自身も強くないといけないんですよね……。がんばらないといけませんね。

最後にHave a nice day!の「Blood on the moshpit」から引用して終わります。

ブルーハーツの歌う“決して負けない強いチカラ”とはいったい何なんだろうか
オレは最近それが“信じる”ってことなんじゃないかって思ってる
とてもシンプルなことだけど本当の意味でこれを手に入れることが出来る奴はごくわずかだ


Have a Nice Day!(ハバナイ) 『 blood on the mosh pit』

以上となります。

ちなみに「けものフレンズ」では途中で入る動物園の飼育員さんの解説がもっともテンションが上がるな!と思いました。今日はそんな感じです。
チャオ!

 

補足、コーチングについてサッと知るならこのへん、という本を置いておきます。むつかしい本も多いので何から入るか悩ましいのですが、これはざっくりしたテクニックをつかむのに良かったです。これで興味がわいたら詳しい本を読み進めるとよさそう。

図解 コーチングの「基本」が身につく本

図解 コーチングの「基本」が身につく本

 

 

 

 

2017年第6週の日記

2017年第6週の日記です。

立春を過ぎじわじわと春の気配を感じているような気がする1週間でした。寒いのは苦手なので、早く暖かくなってほしい……。今週はよく働きよく遊びました。週末はバレンタインを前倒ししたデート計画があり、いろいろ準備していたのですが、喜んでもらえてとてもよかった。幸せな週末でした。

それでは2017年第6週の日記です。

20170206

気温が上がり暖かい日。なんとなく春の気配……?みなさんどうですか?

日中は朝イチの打ち合わせから始まり、11/1引き分け、という感じ。非常に疲れた一日でしたが、おかしいと思う状況にぐいぐい入り込んで、やりたいようにやって、少しずつ手応えが出てきました。なので、楽しい。とはいえ解決するそばからまた難解なタスクが増え続けるので頭が痛くはありますが、新しい知恵の輪を与えられたような気持ちで取り組んでいます。チームメイトとの信頼関係ができつつあるのも、すごくうれしい。達成感ある1日でした。

夜は当初の予定がキャンセルになったので、恋人とちょっと飲むことに。帰り、おいしいというラーメン屋さんに連れて行ってもらい、それが話に違わず本当においしかったので、興奮しました。良い1日の締めくくりだったな。また食べたい~。

20170207

前日と比べると、やや冷え込んだ朝。でも、風の匂いがなんだかもう冬ではないような気がします。(春が待ち遠しすぎて、勘違いしているのかしらん)

日中は相変わらず、ヒーヒー言いながらいろんなワークフローを設計しています。考えごとをしていたところに前触れなく激しいツッコミが入って、頭が切り替わらずアワアワ焦ったりしているのですが、必死で考えて決定している設計なので、ツッコミに対して全ボールをクリーンヒットで打ち返せて、とても満足。「なるほどこのフローは洗練されてますね」とお褒めいただいたので、思わず心の中でガッツポーズでした。

なんとかして良いほうに、みんなが快適なほうへ向けて改善しようと各所を説得して走り回っているせいか、その様子を見た別チームのメンバーがこちらへ歩み寄ってくれつつあり、今日もそういう申し出がありました。伝わったんだと思うと、うれしくて泣きそう。仕事のこういう瞬間って、本当に楽しいです。引き続きがんばるぞ~。

夜は今週も「カルテット」を。先週は外出していて観れなかったので、急いで先週分を消化して、本放送に追いつきました。今週は恋愛色が強かったですね。なんというかもう、久しぶりに次のお話が楽しみなドラマ。

20170208

風は冷たいものの、日差しのあたたかい日。ヘロヘロのボロボロで、脳みそがパンパンになった状態で会社を飛び出し、女友達と待ち合わせてmouse on the keysのライブへ。日中は常に誰かから話しかけられ続けて常に何らかの意思決定をし続けているので、もう耳から音を入れたくない!と破裂しそうになる寸前だったのが、好きな音楽に洗い流されるようでした。最高だった……

以前、働きすぎて身体を壊したときはこういう時間を作ることに罪悪感があって、好きなもののために時間を取ることをためらっていたのですが、むしろ全力で仕事をやっつけるためにはこういう時間こそないとダメで、こういう時間があるからこそ良いパフォーマンスを出せるんだな、と実感しました。命の洗濯や……

帰りは一緒にライブを観ていた友人と夕食。10年以上の付き合いなので、もはや会話は家族のように自由で適当で、過剰に盛り上がりはしないけれど淡々と楽しく、お店を出た後は一緒に「寒い~~」と震えながら気楽に解散したのでした。

20170209

寒い!無理!!!と思いつつ仕事へ。

いや~もう本当にこんなに寒いのは無理ですよ。マジで。死んじゃう。早く春来て。

朝から会議、勉強会、緊急のスタンドアップ会議、議論、みたいな感じで時間があっという間に過ぎて、気付けばもう15時、という一日でした。マジか!おちょこ並みのキャパしかないわたしはすでに限界寸前!という心持ちですが、いま進めている改善が成功すれば、来週いっぱいで今の雑草まみれの荒れ果てた庭は解体され整理され美しい庭園になるのだ!と思うと、非常にワクワクしています。

一緒に入ってもらっているメンバーのモチベーションも高いので、マネジメントしているこちらも嬉しい。自発的に考えて発言しイキイキと活発に仕事をしている女性の表情が心底大好きなのですが、本当に美しくセクシーに見えますよね……。目に光があって背筋が伸びていて、こうしましょう、ああしましょう、と発言している、才気あふれる表情はいいものだ……。わたしもこういう表情ができていたらいいな、と思いました。また、上司と今後について議論した最後に「他に今わたしが進めているプロジェクトでなにか不安に感じられていることはありませんか」と聞いたら「なにひとつない」と言ってもらえたので、またもや心の中でガッツポーズでした。総括して、いい仕事ができた日でした。がんばるぞ~。

20170210

待ちに待った金曜は、有給休暇をもらって、お休みです!!!!!

なぜかというと、恋人と前倒しのバレンタインをするためです。ふだん出勤するときより早く家を出て待ち合わせをして、まずは築地市場からスタート。お天気もよく青々とした空の下で歩く築地市場は、なんだかとても良かった。うにとイクラが半々にのったぜいたくな丼を朝食代わりに食べた時点で、もうすでに最高で勝利を確信、詳細は割愛しますが、夜までずっとずっとずっと最高な1日でした。

ディナーの帰り、増上寺越しの東京タワーを見上げて散歩して、チェックインしていたホテルのバーで一杯だけ飲んで、部屋に戻ってから隠し持っていたプレゼントを渡して、という、ロマンティック満点な夜。たまにはこういうのも良いですね。

20170211

バレンタインデート2日目は、ホテルでブランチからレイトチェックアウト後、東京タワーに登るところからスタート。この日は前もっていろいろ練っていた計画を全部投げ捨て、ちょうど目の前に来ていたバスに無計画で乗ってしまったところ、最高の感じになりました。

昨日は海鮮やらぜいたくなディナーだったので、今日はいっそのことカレーとか食べたいよね、と話していたのをヒントに、目的地へたどり着く前に思いつきでバスから降りて、日比谷公園日比谷公園でカレーといえば、そう松本楼です。お庭を眺めながら定番のカレーとオムライスを食べて、また散歩をしだしたものの陽が傾き出して冷えてきたのでお散歩は終了だ、と銀座を散策していたところ、ソニー展に出くわしたのでそのまま入りたっぷりと満喫。ウォークマンと携帯電話のエリアがやたら活気付いてたのが印象深かったです。

そして同じビルで開催中のマイケル・ジャクソンハイレゾで体験するイベントも、楽しかった!そしてぜんぶ無料だったので、なんか申し訳ない気持ちに!おすすめです。

マイケル・ジャクソン ハイレゾで体感する“NUMBER ONES”|ソニービル 8F OPUS

20170212

日曜は金土の反動で1日引きこもり、ぐっすりと眠りました。布団から出られないまま「けものフレンズ」を観て、のろのろ起きて、遅いお昼ごはんでサバとほうれん草のトマトソースパスタを。サバを洋食に使う、というのはこのパスタで知りました。サバに塩をふって置いておき、臭みを抜いたあとにんにくの香りを出したオリーブオイルで焼いて、玉ねぎとトマトの水煮でソースの下地を作る、というシンプルなものですが、ほうれん草はスーパーで「ちぢみほうれん草」が出ていたのを使いました。おいしかった。

お腹がいっぱいになって気持ちよくなってしまったので、カーテンを開けたままでまた昼寝してしまい、起きたら夜。映画にでも行こうかと言っていたのが全部すっ飛びましたが、たくさん眠って、とても元気になりました。とはいえ、このまま1日が終わるのもな~ということで、夜中に餃子とチャーハンとビールでジャンクな感じの晩ごはん。ロマンティックデートの締めくくりにこういう感じなのはたいへんわたしの好みで、よい週末だったなと思いました。またがんばって働くぞ〜〜!

 

今年の第6週目はそんな感じでした。

チャオ!

彼女たちのチェリッシュ

前回に続いて、また化粧品の話を書こうと思う。コンビニコスメが好きだ、という話を書いた。前回は化粧品というかネイルを塗る時間を作ることで、「自分のために時間を使う大切さを知った」という思い出話で締めくくった。生活の中にある「コンビニ」という場所が、化粧品というアイテムを扱ってくれているおかげで、ルーチンの生活動線から非日常へふいにジャンプするポイントを見つけられて、うれしかったのだ。ということで、今回は、また少し別の話です。

コンビニコスメの対極にあるのは、いわゆる「デパコス」と呼ばれる、デパートコスメだろう、という前提で話を進める。デパコス、というのは、いわゆる伊勢丹高島屋など高級百貨店の化粧品売り場において、ブランドごとに異なる凝った制服を身につけ、上手に(ときには濃すぎるほどの)化粧を施した美しい女性たちの対面販売によって提供される、手のひらに載るサイズなのに5,000円とか12,000円とかする高級な化粧品のこと、と、わたしは認識している。(もちろんそれ以外もあるのかもしれないが、今回は概念としてのデパコスなので、いったん除外する)

男性からしてみると「コンビニで売っているものも百貨店で売っているものも、同じ化粧品じゃないか」と思うかもしれない。「ただの水にちょっと加工しただけなのに化粧水やら美容液というものはなぜあんなに高いんだ」と思うかもしれない。ちょっと知見のある人だと「化粧品の価格なんてほとんどが宣伝費で、それが商品に転化されているだけだろ」と言うこともあるだろう。きっとすべて事実だし、馬鹿げているという気持ちにも共感できる。そりゃそうだろう、と思う。しかしそれだけではないのだ、とも思っている。

高校を卒業するころ、友人たちと連れ立って百貨店に化粧品を買いに行ったことがあった。「タッチアップ」(詳しい人は最近「TU」と略すんですね、かっこいい)というやつで、化粧品売場の、各ブランドのカウンターに赴き、こういうアイテムを探している、と頼むと、おすすめの商品を試させてくれる、というものだ。そのときには、さらにもうひと踏み込みして、初めてのメイク講座、みたいな感じで、販売員(BA、ビューティーアドバイザーというそうです)が実際に化粧をしながらひととおりの手順を教えてくれる、というものに申し込んだ。高校卒業のタイミングで、自己流じゃなくて、ちゃんとした化粧の仕方を習おうよ、という目的だった。友人とカウンターに横並びになり、それぞれにBAがついて、一通り化粧をしてくれた。肌を整え、眉の形や唇の形を整え、まぶたや頬に色を乗せた。わたしたちはとてもうるさい女子高校生だったので、カウンターはとても賑やかになり、平日の昼間の空いている時間帯で予約を申し込んでおいてよかった、と思った。化粧を終えた顔は、なんだかいつもの自分ではないような気がして、むずかゆかった。顔だけが自分から浮いているようで、落ち着かず、なんか大人みたい、と思った。そう思う程度には、わたしたちはまだ子供だったのだ。最後、それぞれがバイト代を貯めて持ってきていたお金でそれなりの金額を払って、みんなで化粧品を一式そろえた。それらはうやうやしく、丈夫で高級そうな紙袋に包まれ、ブランドロゴが入ったその紙袋を下げて街を歩くのが、誇らしかった。

その後、デパコスを始め、さまざまな化粧品と出会い、乗り換え、いまだに使っているものもあれば、買ってみたもののあまり使わないまま、誰かの手に渡ったものもある。今のわたしにとって、デパコスはなかなか縁遠いものとなった。それは休日のわずかな時間を使って百貨店の混雑する化粧品カウンターに赴き、人混みをかき分けてBAに相談をし、セールストークをかわしながら欲しいものだけを買い求める、という作業にかかる精神コストが、わたしにとって非常に高いせいなのだけれど、それでも新しい化粧品のパッケージや効能についての説明を読むと、心が躍る。あの小さな商品パッケージにはいろんなものが詰まっていて、1万円札を1枚か、数枚、お店の人に差し出すことで、それを自分の家に持ち帰れる、というのは、なんだかロマンティックなことのように思える。誰かが心血注いで作ったものを、現金と引き換えに自宅に持ち帰れる幸福、という意味では、世に販売されているすべての商品に言えることではあるのだけれど、化粧品という、ある意味、余剰なアイテムについてだから、より強くそう思うのかもしれない。

最近では、デパートコスメというのはそういうロマンティックなもので、日常における化粧はもっと普通でいい、と思うようになった。わたしにとっての化粧品は、どこのドラッグストアでも買い求められる普遍性だとか、日本全国どこに行っても同じものが手に入るという安心感のほうが重要、というアイテムだ。それは今のわたしにとって、「化粧」という行為が生活の一部になっているからであり、生活の一部をなす行為に使うアイテムを、どう選ぶか、という判断基準は、わたし自身のパーソナリティをよく表していると思う。それは特別な商品をわざわざ探して買い求めるのを楽しめない程度に面倒くさがりで、肌に触れるものについてはいつも同じであるという安心した状態を好み、身なりを整えるために必要以上の金額を支払うのを良しと思えない、というものだ。
プチプラコスメばかりをポーチ入れていて、大人の女として恥ずかしくないのか、という発言をどこかで見かけたことがある。確かにそう思う人もいるだろう。だけれどそのときわたしはむしろ、そういう状態をカッコいい、と感じてしまった。安くていい品を探して手に入れ、使いこなすのは、それもまた素敵な行動のように思えたからだ。様々な情報を集めそれらを精査し、適正と思える価格(よりもう少しお安く、お得に)で商品を手に入れるためには様々なステップがあり、多くの意思決定がある。そういう工夫や検討ができる人が行っているであろう逡巡を微笑ましく感じ、わたしもそういうことのできる人でありたい、と思っている。

いっぽうで、きらびやかな百貨店のカウンターに座り、美しいBAたちにうやうやしく接客をされ、丁寧に説明やアドバイスを受けた上で自分のもとへやってくる高級な化粧品のよさ、というものも知っている。そのときめきは、きらきら光る宝石や、おいしいチョコレートを手に入れたときの気持ちと似ている。必ずしもすべての人に必要なものではないかもしれないが、今のわたしにとっては必要なのだ、という、秘めやかな愉しみだ。チェリッシュ、という単語がしっくりくるのかもしれない。そしてそういう秘めやかな愉しみを知り、胸のうちに持つ女性を、素敵だと思う。

どちらのよさも知っている、というのは、年齢を重ねて手に入れることができた宝物だ。今こうして街を眺めていても、様々な女性がいる。そして彼女たちはそれぞれ、様々なチェリッシュを胸に秘めている。それは彼女たちのポーチの中に隠されていて、当たり前のように彼女たちのそばにある。もちろん、そういったポーチを持たない女性もいる。そして、そういった女性たちもまた、持っている女性とは異なる、彼女たちだけのチェリッシュをどこかに秘めているのだろうと思うと、なんだかワクワクしてしまうのだ。

 

今日はそんな感じです。
チャオ!